瀚海賦

6

 

  遅い……。

  王颯はゲルの中でいらいらと考え込んでいた。

  烏桓に送りこんだ間者がまだ戻ってこない。

  この匈奴の地に着いて既に7日が経過していた。 予定では遅くても2日前には烏桓での仕事を終え

王颯にその報告をしているはずだった。 が、 いまだに何の連絡もない。

  何か不首尾があったのか? まさか匈奴の奴らに見つかり捕らえられたとか……。

  悪い考えが脳裏をよぎるが、 すぐに笑って頭を振る。

  もし間者が捕まったのなら、 王颯の工作が連中に知れ、 今ごろ自分は奴らに捕らえられているはず。

  しかし匈奴側には何の変化も見られない。 相も変わらず丁重なもてなしを受けている。

  烏桓との交渉が長引いているのだろう。

  王颯は不吉な考えを頭から振り払うと、 ゲルの外へと向かった。




  ゲルの外は強い風が吹いていた。 油断すると風に混じった砂が目に入る。

  王颯は目を眇め、 風の吹き荒れる草原を見渡した。

  王庭といっても始終住居を移動する匈奴の都は街があるわけではない。 彼らの家である移動式のテント

が立ち並ぶだけである。 そして外には重要な財産である羊などの家畜の群れが辺りに散らばり草を食んで

いる。

 「本当に長安の都とはまったく違う世界だな。」

  長安の店が建ち並ぶ通りの活気に満ちた様子を思い出し、 まるで違う匈奴の都の様に王颯はため息を

ついた。

  しかし、 だからといって嫌な感じでもない。

  他の漢の連中は定住しない匈奴独特の住居や都というには閑散としすぎる町並み、 彼らの生活習慣

に侮蔑の目を向けていたが、 王颯は不思議な印象を受けるだけだった。

  自分の知らない世界、 知らない知識に興味の念が向く。

  特に馬などの家畜に対する知識には舌を巻く。

  この解放された空間で暮らすというのはどういう気分だろう。

  ふとそんな思いが頭を横切る。

  王颯は埒でもない考えだと自嘲した。

  どうかしている。

  彼らは漢にとっては敵も同然なのだ。 いくら今は友好関係を保っているといっても、 いつその関係が

崩れるかわからない。 その国で暮らすことを一瞬でも考えるとは。

 「この地に来て悪い気にでもとりつかれたか。」

  王颯は首を振りながら、 従者達の様子を見ようと彼らに与えられたゲルへと歩き出した。




 「何か変わったことはないか?」

  ゲルの外では従者達が頭をつき合わせて何か話していた。

 「あ、 王颯様。」

  従者の一人が彼に気付いて礼をとる。 と、 他の連中も次々と先に続く。

 「なんだ。 何かあったのか? 皆集まって。」

  彼らの渋い顔つきに、 王颯は匈奴と何か問題でも起こったのかと眉を顰めた。

 「いえ、 ここの連中の野卑さにほとほと呆れていたんです。 ものは手掴みで食べるし、 風呂にも

入らない。 先程など若者が老人をゲルの中に追いたてるところを見ました。 連中には老体を敬うと

いう気持ちはないのですか。」

 「私も先程とんでもないものを見ました。 馬と一緒になって水を浴びているのですよ。 それも全裸で。

人目もはばからず。 連中には慎みというものがないのでしょうか。」

  口々に言いたてる様子に、 王颯はため息をつくしかなかった。

 「……こちらの土地にはこちらの人の考えがある。 我らの考えを押し付けてはいけない。」

  そう諭すように王颯が従者達に話し出した時、 彼の後ろから笑いを含んだ声が飛んだ。

 「お上品な漢の方々には刺激が強すぎたようだな。 悪いがそちらのお方のおっしゃるとおり、 俺達に

とっては当たり前のことでね。」

  はっと振り向くと、 蘇屠胡が濡れた髪のまま剣を携えて歩いてきた。