瀚海賦




 






 いつの間に側まで来ていたのか。

 男の気配に気づけなかったことに、王飄は内心舌打ちする。 と、 男の全身に目をやった途端、

体に緊張が走った。 抜き身の剣を無造作に右手に持っている。 王飄はぎこちなく笑みを浮かべた。

「……剣とは穏やかではありませんね」

 言いながらも、目は剣から離れない。 全神経が男に集中している。 

 まさか、と思った。 まさか、何か感づかれたか。

 先ほどちらと頭をよぎった不吉な考えがまた浮かぶ。 

 まさか烏桓の件がばれた?

 目の前の男が自分を捕らえに来たかと思った。 無意識に腰に手をやる。 そして、そこにあるはず

の己の剣を確かめようとした。

「おっと、失礼」

 蘇屠胡の陽気な声が王飄の警戒を破った。 男は手にした剣に目を落とすと、笑いながら腰に下げ

た鞘に剣を納めた。

 そしてにやりと笑った。

「他意はない。 先ほどまで剣の稽古をしていたのでな」

 言いながら濡れた髪をかき上げる。

「………そして汗を流された?」

 王飄は蘇屠胡の胸元を流れる雫に視線を向けた。 先ほどまでの動揺が悔しかった。 男の様子に

己の危惧が馬鹿げたものであったことを知る。

 そんな王飄の内心を知ってか知らずか、蘇屠胡はにやにやと笑いながら彼を見た。

「ああ、気持ちがいいぞ。 頭から水を浴びるとすっきりする。 貴殿達もお誘いすればよかったかな」

 からかわれていると思った。 そしてその考えは間違いない。 蘇屠胡の嫌な笑みがそのいい証拠

だった。

「ご遠慮申し上げます。 お聞きになったように我々には人前で肌を晒す習慣はございません」

 冷たい目で目の前の男を見る。

「それは残念だな。 貴殿とは仲良く話を出来ると思ったが?」

 王飄は顔が熱くなるのを感じた。 蘇屠胡が先日のことを思い出して言っているのは明らかだった。

 意味ありげに自分を見る目がそう言っている。 その視線は王飄の口元で止まっている。

「……私には個人的に貴殿と仲良くなる理由はございませんが」

 怒りに震えそうになりながら、王飄は平常心を保とうとした。 今自分がここにいる意味を思い出す。

そうしないと、今にも男を罵倒してしまいそうだった。 匈奴の王子である彼を。

 と、

「そうだ。よければ方々と一度剣の手合わせをお願いしたいものだ。 漢の剣術を見る機会などそう

あるものではないからな」

 突然、話が変わった。 先ほどまでの王飄を見る目が変わっている。

 今の男は面白い遊びを思いついたという顔で自分を見ていた。

 王飄はとっさに返事を返すことができなかった。 背後の部下達が動揺して自分を見ているのが

わかる。 

「王飄殿は剣の腕前はいかがかな? 是非手合わせを」

 蘇屠胡が自分の剣を持ち上げる。 

 大きく息を吸うと、 王飄はゆるゆると首を振った。

「………残念ながら、私は文官ですので剣の方はからっきし……見せるのもお恥ずかしいくらいで」

 王飄の言葉に蘇屠胡はひょいと眉をあげた。 そして軽く肩をすくめた。

「…………それは、残念だ。 では諦めておとなしく退散するとするか。 失礼したな」

 持っていた剣を肩に担ぐようにして、蘇屠胡は歩き出した。

 王飄の側を通り過ぎ、歩き去ろうとする。 そのとき、 王飄は小さく呟く声を確かに聞いた。




「そう簡単に手の内は見せない、か」




 はっと振り返る。

「匈奴の地もそう悪いものではない。 滞在の期間、十分に楽しまれよ」

 蘇屠胡はそう言いながら、ひらひらと後ろ手に手を振る。 そして振り返ることなく立ち去っていった。

 その後ろ姿を見ながら、王飄はまた、心の中にかすかな不安が沸き起こるのを感じた。

「何て態度だ。 何者ですか、あの男は」

 後ろでやっと気を取り直した従者が問いかけてくる。

「……名は蘇屠胡。 烏珠留単干の末子だ」

 従者の問いに答えながら、王飄はじっと男の立ち去った後を見つめていた。