瀚海賦
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漢の使者達が退出した後、 単干のゲル内は紛糾した。
「冗談ではないっ 改名など。 我々は漢の属国ではないのだぞっ」 「しかし今漢と争うわけには……。 烏桓のこともある。」 「先の内紛からまだそんなに経っていない。 今また漢と争うには力が足りない。」 「ふん、 漢とて同じこと。 漢の力が安定していたのはせいぜい元帝の頃までのこと。 続く成帝からの三帝 は皆愚王だと聞く。 今漢は内から腐っておるわっ」 「しかし今実権を握っている王莽という男はなかなか頭が切れるというぞ。 国中の人望もその者に集まって いるらしい。」 「王莽か……。」 それまでじっと考え込んでいた烏珠留単干が口を開いた。 「その者余程己の力を誇示したいか、 それとも純粋に漢の力は偉大だと信じているのか。 いずれにしろ 今回のことはこの者の差し金だろうな。 上手くいけば自分の立場を確固たるものに出来る。 俺が名を変え るということは傍目には漢に服従するように見えるからな。 その手柄は大きい。」 「見え透いた手を……。」 単干の言葉を聞いた一人がちっと吐き捨てるように言った。 「だが漢の狙いが判っていても無下にあしらうわけにもいかぬ。 何しろ相手は漢帝国の正式な使者様 だからな。 よくよく考えて返事せねば。 ……蘇屠胡。」 単干は立ちあがりながらそれまで端で黙って論議を聞いていた蘇屠胡の名を呼んだ。 自分の名を呼ばれて蘇屠胡がすいと顔をあげる。 「使者の方々にはくれぐれも粗相のないように、 丁重にもてなせ。 大事な客人だ。」 「……丁重に、 ね。」 軽く答える蘇屠胡に、 単干はゲルを出ようとしてふと振り返った。 「そういえばお前、 幼い頃から寧胡閼氏のことを気に入っておったな。 ……まさかとは思うがあの王颯 という者に変な気は起こしてはおらぬだろうな。 」 単干の言葉に蘇屠胡は口元に薄く笑みを浮かべた。 「確かに良く似ている。 男だから肉感的な色気はないがその分清廉な感じがあっていい。」 「いいか。 変なちょっかいは出すな。 相手は漢の使者だ、 それも正式な。 バカな真似をして我々の立 場が悪くなるようなことになってはかなわん。」 「……承知。」 釘をさす単干に蘇屠胡は深く頭を下げた。 が、 その目には何かを企むような危険な光があった。
与えられた客用のゲルの中で王駿が上座にドサリと腰を下ろした。 「彼らにしてみれば当然の反応でしょう。 彼らも自分達の名に誇りを持っているはずですから。」 王颯は上司の側に控えながら控えめに口を出した。 「まったく。 我々と同じ漢の名を許してやろうというのに、 なんて態度だ。 素直に光栄に思えば良い ものを。」 「王駿殿。 そのような物言いはこの場では控えられるようお願いします。 ここは匈奴の土地なのです。 どこに彼らの耳や目があるか判りません。 発言や行動如何によっては我々はすぐにでも殺されるでしょ う。 くれぐれも軽率なことをなさらぬようにご注意申し上げます。」 「わ、 わかった。」 王颯の鋭い言葉に王駿はいっきに青ざめ、 こくこくと頷いた。 よく見ると小さく震えている。 ”死” の 一言が余程効いたのだろう。 さっきまでの不遜な態度とは一変したその様子に、 王颯は臆病な上司に判らぬよう苦笑した。 ”それよりも単干が思っていたより平然としていたのが意外だな。 なかなか一筋縄ではいかない人物 のようだ。 このまま素直に承知してくれるとよいが……。 ” この後の匈奴との交渉の行方を考え、 あらゆる場合にも備えられるように計画を立てる。 ”もしもの場合に備えてここを脱出する方法も探しておいたほうがいいな。 烏桓から手の者達が戻って 来るのは早くても2、3日後になる。 それまでに私だけでも出来る限りのことをしておかないと。” 王颯は目の前の上司のことを頭の中から追い出し、 考えを巡らし始めた。 ふと、 先程の強い視線を思い出す。 ”蘇屠胡と言ったな。 単干の息子か……厄介な存在にならなければいいが。” 自分をじっと見つめていたあの目の光に、
王颯は不安な気持ちが湧き上がってくるのをおぼえた。 |