瀚海賦

 

「 失礼した。 ご一行のことは聞いている。 我らは出迎えの者だ。 王庭までご案内しよう。 」

  王颯達に横柄な態度をとっていた連中を一声で沈黙させた男は、 馬に乗ったまま軽く礼をとるとそう言って馬の

馬の向きを変えた。

” 王族の者か? ”

  同族の礼を失した態度に悪びれた様子もなく堂々と挨拶する様子に、 上に立つ者の不遜さを感じた王颯は、 前

に立って一行を先導する男の横顔をじっと観察した。

  砂漠の厳しい環境での生活を物語る浅黒く日焼けした肌、 漆黒の髪は編まれて背中に長く垂れている。 どちら

かと言えば端正な部類に入る顔立ちに薄く笑みをはいた口元。

  先程の挨拶の時もそうだが、 男のどこか状況を面白がっている様子は軽薄なものを感じさせたが、 しかし眼光

の鋭さがそれを裏切っている。

” あれは猛禽の目だ。”

  獲物を見つけると瞬時に襲い掛かる猛禽類を連想し、 王颯は男に油断ならないものを感じた。

” 王庭では行動に気をつけなければな。 もし烏桓を煽動しているのが漢だと知れたら……。”

  匈奴の地での己の立場の危険性を改めて認識し、 警戒すべき人物として目の前の男を心に留めると、 王颯は

後方の様子を見るために馬のきびすを返した。

  そんな彼の様子を見ている目に気づかずに……。

「 面白くなりそうだな。」

  先程まで王颯の視線を受けていた男は、 そうつぶやくと小さく笑った。







  匈奴の王である烏珠留単干のゲルが建てられている王庭は、 匈奴の都にあたる。

  その王庭にひときわ大きく目立つゲルの中で、 王颯達は烏珠留単干の歓待を受けた。

「 王颯殿……といったな。 そなたもしや寧胡閼氏……ああ、 漢では王昭君という名だったな、 あれと繋がりのある

ものか?」

  王駿のおどおどとした口上を聞いていた烏珠留単干は、 紹介と共に顔を上げた王颯の顔を見ると少し考えるよう

な表情を見せ、 おもむろに尋ねてきた。

「 昭君は私の父の妹、 私からは叔母にあたります。」

「 おお、 どおりであれの若い頃にそっくりなはずだ。 遠路はるばるよく来られた。 寧胡閼氏も喜ぶだろう。 あとで

ゆるりと会われるがよい。 漢の話でもしてやってくれ。」

  王颯が自分の妻の甥だと聞き納得したようにうなずいた単干は、 しげしげと彼の容貌を眺めた。

” どれだけ美人だか知らないが、 女に似ていると言われてもな。” 

  自分が生まれる前に匈奴の地に嫁いだ美貌の叔母とうり二つだと、 幼い頃より周りから散々言われてきた王颯

は、 単干の言葉に内心苦笑いしながら深く頭を下げた。

「さて、 それでは用件を聞こうか。 わざわざこんな遠くまでお越し下されたのだ。 ただ事ではないと思うがこの私に

出来ることかな。」

  王颯の顔を眺め終わった単干は、 視線を正使の王駿に戻すと早速本題に入ろうとした。

  単干の言葉に、 漢の使者達の間に緊張が走った。

「 ……はい。 実はこの度漢より烏珠留単干へ申し出がありまして……まずはこちらを……。」

  冷や汗を掻きながら何とか話を始めた王駿は、 王颯がささげ持っていた封書を単干に示した。

「 ほう、 私にか。」

  王颯から封書を受け取った単干は、 ざっと中身に目を走らせるとすっと目を細めて沈黙した。

「 ……漢は私の名を漢風に改めよ、と?」

「 なんだとっ 」

  ようやく開いた単干の口から出た思いもよらない内容に、 匈奴の重臣の間で大きなどよめきが起こった。

「 改名だとっ 」 「 何をバカなことをっ 」

「 我らを愚弄しているのか?」

  周りのあまりの剣幕に王駿はおびえたように辺りを見まわし、 王颯に救いを求める視線を向けた。

  やれやれと王颯は頼りない上司の救助信号を受け取ると、 周りに向き直り努めてにこやかに言った。

「 愚弄とはとんでもない。 我々としましては今後のニ国のいっそうの友好を願って、 少しでも我らに親しみを持って

いただけたら、と。 決して深い意味があるわけでは……。」

「 改名のどこが深刻ではないとっ 」

「 漢は何を考えている。」

 王颯の言葉にますます憤った様子を見せる周りに、 王駿はますます身を小さく縮める。

「 まあ、 待て。」

  今にも刀を抜きそうな程激昂する匈奴の重臣達に水を差したのは、 意外にも単干本人だった。

「 使者殿。 改名、 しかも漢風というのは我らにとって小事ではない。 何しろ思いもかけないことなのでな。 しばらく

考える時間をいただこうか。 その間ゆるりと滞在されよ。 部屋など用意させるゆえな。」

「 ……かたじけない。」

  まだあちらこちらから出る不満や罵倒を制しながら、 単干は側にいた者に小さく耳打ちし下がるように手を振った。

「 今、 宴の準備をさせよう。 まずは度の疲れを落とされよ。」

” ひとまずは一山を越えたか。”

  単干の言葉に少し肩の力が抜けるのを感じながら深く拝礼し、 王颯は先程耳打ちされた従者らしき者の案内に

従って王駿達と共に退出しようとした。 と、 強い視線を感じそちらに目を向けた。

  視線の元には、 道中王颯達を王庭まで先導したあの男が立っていた。

「 失礼ですが、 あの方は……?」

  王颯の問いに従者は、 ああ、 と答えた。

「 あの方は単干の末の御子で蘇屠胡殿ですよ。」