瀚海賦

 

 どこまでも続く石と砂。 四方八方どこを見渡しても、 それら以外に存在するものを目にすることはできなかった。

もう何日も続く同じ景色に、一向は不安と疲労の色を隠せなかった。 ただでさえ慣れない砂漠での旅、 それも行

先は決して好意をもって迎えてくれるとは言えない匈奴の地である。 砂漠に足を踏み入れた時から 覚悟をしてい

たとはいえ、 顔にあたる砂混じりの風や昼間と朝晩の激しい気温の差に、ただでさえ明るくはない気持ちがさらに

落ち込んでいく。

「 本当にこの方角で合っているのか? あとどれくらい進めば匈奴の地に着くのだ。 」

「 この方角で間違いありません。 王駿殿。 匈奴の地に明るい者を幾人も連れています。 ご心配めさるな。 」

 もう何度も繰り返された問いに、内心うんざりしながら王颯もまた同じ言葉を口にした。

 この上司にはほとほと呆れ果てた。

 都を出発した当初から、 自分では下への指示の一つも満足に出来ないくせに、 不満だけは人一倍多いのだ。

それもやれ食事がまずいだの、寝床が粗末だの、馬に乗りっぱなしで尻が痛いだのとくだらないことで騒ぎたてて

は王颯を呼び出す。 果ては何故自分がこんな任務を受ければならないのかなどと延々と愚痴をこぼすのだ。

  いっそこの場で置き去りにしてしまいたい、 と思ったのは王颯だけではないだろう。

「 まったく宮廷は何を考えているのだ、 こんな役目に私を出してくるとは。 大体匈奴の相手などもっと下の連中で

充分ではないか。 ちょっと言って聞かせればあんな野蛮人の連中など、 漢の威光の前にひれ伏すに決まってい

る。 」

「 …… 王駿殿。 匈奴は漢の属国ではなく友好国です。 それなりの礼は尽くさなければ。 」

” まったくこのバカが……。”

  今度はまた見当違いな発言をはじめた王駿に、 王颯は心の中で舌打ちしながらやんわりと訂正した。

  確かに今回の任務は実質的には何の益も無い。 それどころか下手をすると漢と匈奴の間が一気に険悪になる

可能性さえある。 なんとなれば任務の内容が単干の名前を漢風に変えろという、 どう考えても漢の高圧的な要求

にしか思えないものだったからだ。

  このような提案を出したのは、 今宮廷の権力をその手に牛耳っている王莽だった。 王皇太后の親戚である彼は

第十四代皇帝である平帝がまだ幼く政事に関与できないのをいいことに、 皇太后と手を組みその力を欲しいまま

にしていた。 その彼がこのたびの派遣を決めたのは、 諸外国に対して漢の力を見せつけることと、彼の独裁に不

満を持つ宮廷内の反対派の気をそらせる為ある。 上手くいけばこの成功によって反対派を味方に引き入れることも

出来るとも考えたのであろう。

 おそらく匈奴は余程のことが無い限り、 漢の要求を飲むことだろう。 かつて漢の武帝をも撤退させた程の猛勢は

今の匈奴には無い。 その後の漢との幾度にも渡る戦いに加え、 国内での長い内乱によって匈奴の国力はみるみ

る弱体化していったのだ。

  しかし彼らの好戦的な性格が変わったわけではない。 こちらの態度如何によっては彼らは躊躇無く刃を抜くこと

だろう。 そしてその時には真っ先に自分たちの命が無くなるのだ。

” その辺りの状況をわかっていない。 このうすらボケが……!”

  もしこのたびの任務が失敗するとすれば、 この上司の動向が原因の一つになるに違いない。

” 烏桓と繋ぎをとったのは正解だったな。 少しでも匈奴の枷になるだろう。”

  まだ愚痴を言いつづける上司を横目で見ながら、 王颯はそっとため息をついた。

  異変があったのはそれから数刻がたった時だった。

「 王颯殿。 前方から馬が数騎やってきます。 」

「 迎えか?」

  一向に緊張が走った。

  このたびの訪問のことは、 先触れを出して匈奴側に伝えてはいた。 偵察も兼ねて出迎えに来るだろうとは予想

していたが、 数が多い。 ニ十騎はいる。

「 お、 お、 お、 王颯殿。 匈奴の連中か? な、何だ、 あの兵士の数は。 わわ、 わ、 我, 我、 我らを捕らえに来た

のか?」

「 落ち着きください、 王駿殿。 」

  先程までの態度とは一変して、 匈奴の数に怯み部下に縋る上司の様子に、 これは無理だなと判断し、 王颯は

自分が彼らと対応することにした。 当てにならない上司には自分の後ろに下がるように示した。

「 その一向止まれっ! どこの者だ?」

  騎馬の集団は王颯達の前で一斉に馬を止めると、 いきなり詰問してきた。

「我々は漢からの参りました烏珠留単干殿への使いの者です。 先触れは出しているはずですが。」 

  その高圧的な口調に内心不信なものを感じながら、 王颯は一歩前に出ると丁寧に礼をとり 口上した。

「 漢? おい、 そんな報せあったか?」

「 いいや、 知らないな。」

「 本当に漢の使者か、 そいつら。」

「 なんだと…?」

  馬上から王颯達を見下ろしながら、 ニヤニヤと笑う彼らに供の一人が気色ばんだ。

” まさか初っ端からこのような対応を受けるとはな。”

  予想よりも好戦的な彼らの態度に、 王颯はさてどうしたものかと考えた。 その時、

「 やめろ。 客人をからかうんじゃない。」

  彼らをたしなめる声がしたと思うと、 一群の中からひときわ大きい一騎が出てきた。