瀚海賦                     


 漢は元帝の時代。匈奴の呼韓邪単干は漢宮の美女を一人、己の妃にと漢に所望した。
匈奴を見下していた皇帝は、美女を差し出すことを惜しみ、当時宮廷画家に命じて描か
せていた後宮の女達の肖像画の中から、一番醜い女を選んだ。
 しかし匈奴に旅立つ日、初めて皇帝の前に姿を見せた女、王昭君は後宮内でも一、ニ
を争うような美貌の持ち主だった。
 その美しさに驚いた皇帝は匈奴に差し出すことを惜しんだが、いまさら決定を覆すこ
とは出来ず、仕方なく彼女を匈奴の地へ送り出した。
匈奴に赴いた王昭君は、漢と匈奴の交流に力を尽くし、匈奴の平和を寧んずる者とし
て寧胡閼氏と呼ばれ、匈奴の人々に敬愛された。
                           
                           「王昭君」

         

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「 ……王颯殿?」

 長安からずっと自分の側に控えていた副使の姿を探し、王駿は砂埃の立つ野営地を見まわした。

明日から本格的に砂漠に入る前に、細かい事柄を打ち合わせておきたかった。 初めての砂漠の

旅なのだ。未知の世界に足を踏み入れる緊張とわずかな恐れに気が落ち着かない。

 いつも冷静な副使の顔を思い出し、きょろきょろと辺りに目をやっている王駿の耳に、かすかな水

音が聞こえた。急いで音がした方向へ足を向けると、井戸の側で気持ちよさそうに水を頭から浴び

ている男の姿があった。      

「 王駿殿もいかがですか? 明日からは当分このような贅沢は出来ませんよ。」

目を向けた先に自分の上司を見た王颯は、濡れた髪を手で梳きあげ、笑みを浮かべて言った。

「 いや、私は……」 

「 ああ、これは失礼いたしました。 そういえば明日からの打ち合わせがまだのようでしたね。 すぐに

まいりますので少々お待ち頂けますか。」

 部下の鮮やかな美貌を目の当たりにした王駿は、 いつものようにどぎまぎとしたしぐさで諾の返事

をすると、あたふたと野営地に戻っていった。

「 なんとも扱いやすいお方だな。 」

 もっともその方がこちらとしても動きやすいが。  先程とは打って変わって皮肉な笑みを浮かべ、

上司の後姿を見送った王颯は、そうひとりごちて自分の背後を見やった。そこにはいつのまにか

一人の男が片膝をついて王颯に礼をとっていた。

「 烏桓の動きは?  その後何か変わったことは起こっていないか。」

「 はい。 しかし動きが少々消極的に。 匈奴の目を引くほどの争いが起こっておりません。 どうやら

漢に不信を抱いている者達が上部にいるようです。このまま漢に従って匈奴に争いを仕掛けていて

も利が無いと……」

「 まずいな……。 今は少しでも匈奴の力を削いでおきたい。 すぐに烏桓に密使を。 漢は貴国との

約定を信じているとな。 匈奴をこれ以上増長させないためにも、こして今後我々が友好を深めてい

くためにも匈奴の奴らを牽制しておく必要があると納得させるんだ。今回の件が無事終わればいず

れ漢からそれなりの礼があるとでも仄めかしておけ。」

「 はっ」 

 男は王颯に深く叩頭するとそのまま静かにその場から姿を消した。

「 まったく烏桓の奴らも、なかなそう簡単にはこちらの思い通りには動いてくれないか。 だが今回の

任務が終わるまでは何とか匈奴の気をそらしておいてくれないと。 下手に余裕があると漢の内情を

探りかねないからな。 こんな国が不安定な状況を匈奴に知られたら、今回の件だけでなく今後のニ

国の力関係まで危うくなってしまう。 烏桓が上手く動いてくれればいいんだが・・・。 」

  軽くため息をつくと、王颯は気を揉んで待っているだろう上司の元へと急いだ。