冬の瞳

 

40

 

 

 

  爽やかな風が森の緑色に染まった木々の揺らしていく。

  アーウィンは森を抜け、 小さな湖のほとりで馬を止めた。

  馬の背から下りて、 水を飲む。

  馬にも水を飲ませながらぼんやりと光の踊る湖面を見つめた。









  アーウィンは今賑やかな街中にある本邸ではなく、 領地の中でも奥まった田舎の別邸にいた。

  静かな場所で何も考えずにいたかった。

  このままずっとここにいるのもいいかもしれない。

  そんな考えが浮かび苦笑をもらす。

  もう宮廷に戻る気はなかった。

  ユールのことは城の中でも国の中でも誰一人知るものはなく、 噂に広まることはなかった。

  王を始めとする重臣達は今回のことを中枢だけの密事とすることに決定したのだ。

  国の柱の一つであるルトリック公爵家のスキャンダルは、 その内容のおぞましさからも表に出れば

大変な騒ぎになるに違いなかった。

  下手をすると城の中枢が崩れる怖れがある。

  そうなれば国全体の政治にまで影響が出てくる。

  今は国が安定しているとはいえ、 他国に隙を見せるようなことは避けるのが賢策だ。

  それにユール本人はすでに死亡していて罰することはできない。

  信頼の厚いルトリック公爵の今までの王家への献身をかんがみ、 王は今回のことは公爵家に対して不問と

処すことに決めた。

  だが、 アーウィンはそれに納得できなかった。

  ユールは死んでしまっても罪が消えることはない。

  殺された人々は生き返ることはないのだ。

  弟を止めることが出来なかった、 その罪に気付くことさえ出来なかったという罪悪感がアーウィンの

心に残った。

  それに、なによりもアーウィンには自分の愛している人間を疑ってしまったという負い目があった。

  疑うだけでなく、 この上ない仕打ちをしてしまった。

  そんな自分を許すことができない。

  エリヤを傷つけるだけ傷つけて、 どうして平然と彼に会えるというのだ。

  エリヤ………

  アーウィンは湖面をじっと見つめながら、 心の中で愛しい人の名をつぶやいた。

  宮廷から訪ねてきた人間の話で、 エリヤがすっかり回復したことは聞いた。

  もう以前と変わらぬ様子で暮らしていることも。

  城を出た時最後に見た、 まだ意識を失い眠り続けていたエリヤの青白い顔を思い出す。

  その顔に触れる事もできなかった。

  ただ見つめるだけだった。

  自分にはもうエリヤに触れる資格などないのだ。

  散々に彼を傷つけた。

  旅の間ずっと自分に向けられていた哀しみと怯えの混じった眼差しが忘れられない。

  エリヤを傷つけるためだけに酷い方法で抱いた。

  言葉で態度で嬲り続けた。

  自分に抱かれながら涙を流したエリヤの哀しみに満ちた瞳を思い出す。

  一番大切な人をこの手で傷つけた。

  アーウィンはエリヤに対して行った様々な仕打ちに、 自分を呪いそうになる。

  だからエリヤの側にいる事はできなかった。

  側にいると、 自分のした仕打ちも忘れてエリヤに手を出すかも知れない。

  エリヤに近づく人間に嫉妬して愚かな真似をしてしまうだろう。

  それにもしエリヤの心を捕らえる人間が現れたら……

  エリヤが他の男に惹かれるのを、 あの優しい笑みを向けるのを見ていられない。

  嫉妬する資格などないというのに。

  だからもう宮廷には戻れない、 戻らないと決心したのだ。

  自分のいないところで、 エリヤは新しい誰かを見つけるだろう。

  そして今度こそ幸せになるだろう。

 「エリヤ………」

  アーウィンの目に苦悩の色が浮かぶ。

  沸き起こる慕情を押し殺してつぶやく。

 「幸せになれ………今度こそ……」

  またあの優しく柔らかい笑みを浮かべられるように……

  そう願いながら目を閉じる。

  じっと立ち尽くすアーウィンの周りを、 風が通り抜けていった。











  ふと、 物思いにふけるアーウィンの耳にかすかな馬の足音が聞こえた。

  それはこちらに向かってきているようだった。

  こんなところに誰だ、 と思う。

  ここはルトリック家の私有地だった。

  滅多な人間が入ることは出来ない。

  身構えて侵入者を待つアーウィンの前に、 馬に乗った人影が森から姿を現わした。

  その姿を見たアーウィンは驚愕に声も出なかった。

  ただじっとその馬上の人影を凝視する。

  相手も馬の歩を止めると、 黙ってアーウィンを見つめていた。

  しばらくして、 やっとアーウィンが強張った口を開いた。

  かすれた声でつぶやく。

 「エリヤ………」