君に降る雪のように

 

 「ああっ なんで君まだここにいるんだっ 信濃さんっ どういうことですかっ どうしてこの子家に

帰さないんですかっ まさかあれからずっとここにいるとか言わないでくださいよっ」

  数日後、 原稿の打ち合わせに訪れた笹部は、 ソファでくつろぐ甲斐の姿を見て声を張り上げた。

 「うう〜ん、 帰せって言ってもねえ。 甲斐結局ここにいることになったんだ。」

 「なったって、 なったってどういうことですかっ そんな簡単に決めないでくださいっ 見ず知らずの人間

と暮らすなんてっ それとも知らない親戚だったとでも言うんですかっ」

 「あ、 それいいね。 うんうんそうしよう。 甲斐、 今から僕の遠い親戚ってことでいいね?」

 「……知らねえぞ、 そんないいかげんなこと言って。 そこのおっさん、 目え剥いてるぞ。」

  のんきに了解を求める信濃に、 甲斐の方が呆れてしまう。

 「〜〜〜信濃さんっ!」

 「さて、 打ち合わせしようか。 あんまりうだうだ言ってると、 俺やる気なくしちゃうよ。」

  さらに何かを言いかけた笹部に、 信濃がさらりと爆弾を落とす。

  笹部は口を開いたままぴきんと凍り付いてしまった。

 「……お気の毒……。」

  甲斐が心底気の毒そうにつぶやいた。





  打ち合わせがなんとか終わり、 笹部が肩を落としたまま書類をトントンとまとめる。

 「じゃあ今回はこういう方向でいくことに。 信濃さん、 ほんとお願いしますよ。 僕の胃に穴開ける気

ですか。」

 「あはは、 大丈夫大丈夫。 笹部さんも心配性なんだから。 そんな深刻に考えることじゃないって。」

  いや、 考えてくれ。

  気楽に笑う信濃に、 笹部と、 お茶を片付けていた甲斐が同時に思った。

 「甲斐〜おなかすいた。 今日のご飯何?」

 「魚。」

  無邪気に問う信濃に甲斐が答える。

  心配そうにこちらをうかがう笹部には気の毒だが、 甲斐としても他に行くところがないのだからこの際

彼の胃の問題には目をつぶることにする。

 「笹部さんも食べていく? 甲斐の料理おいしいよ。」

 「いえ、 僕は……。」

  ソファから立ちあがりながら笹部が力なく答えた。

  そのまま退出しようとして、 あ、 と鞄に手をやる。

 「そうだ、 忘れてた。 信濃さんこの間写真展行きたいのがあるっておっしゃってましたよね。 チケット

手に入れましたからどうぞ。 それと他にもいくつか面白そうなものありますよ。 人形展とか絵画展とか。」

 「あ、 ほんと? ありがとう。 ……これこれ。 見たかったんだ、 この人の写真。」

  差し出すチケットを信濃は嬉しそうに受け取った。

 「ふ〜ん、 この絵とかもいいかも。」

 「でしょう? 今ロンドンで人気が出ているんですよ、 その人。」

 「へえ。」

  二人の話し声を耳にしながら、 甲斐が夕食の準備に取りかかろうとした。

  冷蔵庫から魚を取り出そうとして、 肩をとんとんと叩かれる。

  振り向くといつのまにか笹部が後ろに立っていた。

 「……何?」

 「甲斐くんって言ったよね。 くれぐれも言っとくけど、 信濃さんに迷惑かかるようなことしないでよ。

頼むから信濃さんの仕事の邪魔もしないように。 どういうつもりか知らないけど、 信濃さんがああ言って

るんじゃあ僕には何も出来ないし。 いいね、 わかったね。」

  そう釘をさすと、 とぼとぼと玄関に向かった。

 「……迷惑ってなんだよ。 そんなことするわけねえだろ。」

  そう憤慨しながらも、 哀愁ただよう笹部の後ろ姿に甲斐は少し彼がかわいそうになった。

 「そうだよな、 あいつ俺の事情知らないんだものな。 怪しい奴と思って仕方ないか。」

  今度くるときは、 もう少し優しくしてやろう。

  甲斐はしみじみとそう思った。




  夕食後、 甲斐が風呂から上がると、 信濃がソファで一人ビールを飲んでいた。

 「あれ、 珍しいね。 信濃さんがアルコール飲むなんてはじめて見た。」

 「風呂あがりで暑くて喉乾いたから。 俺だってアルコールくらい飲む。」

  そう言いながらもすでにろれつがあやしくなっている。

 「……大丈夫かよ。 顔赤いぜ、 もう寝たら?」

 「ガキが生意気だぞっ 俺は大人っ お前は14のガキ……あれ? ほんとのお前って24だっけ。

でも今は14だよな。 でも今のお前は24で……あれれ?」

 「もう酔っ払ってる……。」

  首をかしげてわけのわからないことを言いつづける信濃はどう見ても立派な酔っ払いである。

 「ほら、 信濃さん。 ベッド行こう。 立てる? ちゃんと足に力入れて。」

  しかたなく甲斐が信濃を寝室に連れていこうと手を差し出した。

 「い〜や〜だっ まだ眠くないっ」

 「勘弁してよ。 そんなに酔っ払って、 アルコールめちゃ弱いじゃないか。 ほらほら、 信濃さん、 ベッド

行ったらすぐ眠れるから。」

  いやいやと首を振る信濃をなんとか寝室に連れていこうとする。

 「お前、 居候なのに生意気っ 俺は寝ないって言ってんのっ 俺は偉いのっ」

 「はいはい偉いからベッド行こ。」

 「俺をベッドに連れてってどうする気なんだよ。 あ〜っさてはやらしいことしようと考えてるなっ」

 「しっ信濃さんっ 何言ってんだよ。 もうっこの酔っ払いっ」

  信濃の言葉に甲斐がうろたえる。

 「そんな悪い子にはあ、 え〜いっ こうだっ」

  信濃はそう言うと、 ベッドに連れていこうと屈みこんでいた甲斐の頭をがしっとつかみ、 いきなり

甲斐の口に自分の口を押し付けた。

 「っっ!!」

  突然の信濃のキスに甲斐は頭が真っ白になり、 ただ呆然と信濃が口づけるままになっていた。

 「ぷは〜っ」

  何十秒かの後、ようやく信濃が唇を離しても、 甲斐はかたまったまま身動き一つしなかった。

 「甲斐〜? なんだよお前、 わははは変な顔〜。 ……なんか眠くなってきた、 寝る。」

  そう言うと、 信濃は硬直しきった甲斐を尻目にコテンとソファに寝転がり、 そのまますぐにすうすうと

寝息を立て始めた。

  しばらくして我に返った甲斐が見たものは、 目の前で気持ちよさそうに眠る信濃の姿だった。

 「……なんだってんだよ、 一体……。」

  先程のキスを思い出し、 また真っ赤になって口を押さえた。

  しかし不思議と嫌と感じない自分に甲斐は気付いていた。

  信濃の唇はアルコールに混じって甘い香りがした。