君に降る雪のように
3
なおも甲斐の身元を問いただそうとする笹部に、
信濃は原稿を渡すとさっさと部屋を追い出した。 笹部も原稿を早く会社に持って帰らなくてはならないこともあって、 甲斐のことが気がかりながらも しぶしぶと会社に戻っていった。 「やれやれ、 笹部さんも心配症だから。」 「……俺はあの人の反応の方が正しいと思うよ。」 信濃の言葉に、 甲斐が複雑な顔をする。 「ところであの人何? 原稿とか言っていたけど、 もしかしてあんた作家か何か?」 「俺? ちょっと童話書いてんの。 あの人は出版社の人でね、 俺の担当してくれてる。」 信濃が食後のお茶を上手そうにすする。 「へえ、 童話……。」 「知らないだろ。 君の年ではもう興味ないものだろうしね。」 なんと答えたらいいのかわからない顔をする甲斐に、 信濃が笑って言った。 「さて、 飯も食ったし、 そろそろ本題に入ろうか。 君のフルネームは? どこから来たの? どうして あんなところに?」 「ち、 ちょっと待ってくれよ。 そんないっぺんに言われても。」 いきなりの質問攻撃に、 甲斐はたじろいだように言った。 「ああ、 ごめん。 ……じゃあもう一度、 まず君の名前。」 「……忍野、 忍野甲斐。」 「オシノ カイ、 ね。 じゃあ次、 住んでいるところは?」 「……東京。」 「東京のどこ?」 「千駄木。」 「ふ〜ん、 結構近いね。 ってなんだよ、 ちゃんとわかってるじゃないか。 自分ちわからないなんて 言うからびっくりしてたのに。」 「違うっ ほんとにわからないんだ。 俺んちなくなってんだもん。」 「なくなる?」 甲斐の言葉に、 信濃は目が点になった。 「何言ってんの。 家がそう簡単になくなるわけないだろ。」 「ほんとだってっ 昨日家に帰ろうとしたら、 俺の家があったところがマンションになっていたっ 周りも知らない家がたくさんあったし、 隣の人も知らない人になっていた。」 「……何それ。」 「知らねえよっ こっちが聞きたい。 わけわかんなくなって、 こっちにある友達の家行ってみたら そこも知らない人が住んでて……俺、 もうどうしたらいいのかわかんなくて……。」 信濃はじっと黙り込んでしまった。 あまりにも突拍子のない話だ。 1日で周りの環境が変わってしまうなど、 どう考えても変である。 といって甲斐が嘘を言っているのかというと、 そうは見えない。 本当に途方にくれた顔をして うなだれている。 ”これで演技だったらすごいよな。” 信濃はため息をつくと、 うなだれる甲斐の肩を叩いて言った。 「とりあえず話を聞こう。」
昨日父と大喧嘩をした甲斐は、 そのまま家を飛び出して友達と街で遊び歩いていた。 ゲームセンターをまわり、 遊んでいるうちに気が落ち着いてきた彼は、 所持金も少なくなったことも あり、 夜遅くに家に帰ろうとした。 ところが近所まで帰ってきて何か違和感を感じるようになった。 まず憶えのない店が駅前に出来ている。 しかしそのときはさほど気にも留めず、 家に向かった。 すると、 近所にまた見覚えのない家が何件か目にとまった。 おまけに朝まであった公園がなくなって いた。 気持ち悪くなった甲斐は、 急いで家まで走り帰った。 しかし甲斐が目にしたのは3階建てのマンション だった。 何時間か前に飛び出したばかりの甲斐の家は、 なくなってしまっていたのだ。 まわりを見渡しても、 確かにそこは甲斐が生まれ育った家のあった場所だった。 なのに今そこには 彼の家はなく、 大きなマンションが立っているだけだった。 混乱した甲斐は小さい頃から仲のいい隣の家のベルを鳴らしたが、 出てきたのは見知らぬ若い女性 だった。 不信そうに甲斐を見る女性の目に怖くなり、 甲斐は小学生の頃から仲のよかった友達の家を頼ろう としたが、 そこでも出てきたのは見知らぬ男性だった。 「こんな遅くになんの用だっ」 その男に怒鳴るように問いただされ、 甲斐は何も聞けずにその場を走り去った。 その後はもう誰かに尋ねることも怖くなり、 ただ途方にくれて夜通し歩いた。 そして疲れて座りこんだ 所が信濃のマンションの前だったのだ。 「……信じられない話だね。 そんなことってあるのか?」 「ほんとだってっ 信じてくれよっ」 縋るような目で訴える甲斐に信濃はうんと頷くと、 なだめるように甲斐の頭をぽんぽんと叩いた。 「わかったよ。 とにかく今君には帰る家も頼る人もいないってことだ。 今日のところはもう遅いし ここに泊まっておいで。 明日、 一度君の家まで行ってみよう。」
そう言って信濃はにっこり笑った。 |