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その夜、
しんと静まり返った廊下を通り稽古場の戸をそっと開くと、
明りがついていない 室内は月明かりに照らされ案外明るかった。 「……恭生?」 ジェフリーはここにいるはずの人の名をそっと呼んだ。 「ここにいる。 ちょっと待ってて。」 舞台奥から声が聞こえ、 何やらカタカタと物を動かす音がした。 「……お待たせ。」 しばらくして出てきた恭生の姿にジェフリーは目を見張った。 化粧やかつらこそしていなかったが、 身にまとったものはジェフリーが初めて恭生を見た ビデオの中のあの藤色の衣装だったのだ。 「恭生、 それは……」 「背のびちまったからちょっと小さいけどな。 もう使わないからって逸生兄さんがくれた。」 恭生は照れくさそうに着物の袖を引っ張りながらジェフリーに近づいた。 近くで見ると、 何もつけていないと思った恭生はうっすらと化粧し、 紅をつけていた。 「恭生、 化粧を……?」 「ああ、 これくらいなら大丈夫だ。」 変か? と訊ねる恭生に首を横に振る。 今の恭生は普段とがらりと雰囲気が変わり、 とても蠱惑的な魅力をたたえていた。 抱きしめてキスしたい。 体の内に沸き起こる衝動をジェフリーは必死に抑えた。 このような姿をするには……。 「恭生、 一体……?」 高まる期待に声が震える。 にっこりと笑う恭生の口から出た言葉はジェフリーの期待を裏切らないものだった。 「お前に俺の ”藤娘” 見せてやるよ。」
そう言って恭生が取り出したのは一扇の舞扇だった。 薄紫色のそれを見たジェフリーは驚いた目で恭生を見た。 「……持っていてくれたんだ。」 「俺の好きな色だから。」 かすかに頬を染めると、 恭生は舞台横にセットしたカセットのスイッチを入れる。 舞台に上がると同時に恭生の表情が一変した。 静かに音楽が流れ出す。 舞いはじめた恭生は、 もうジェフリーの知っている彼ではなかった。 目の前で舞っているのは一人の藤の精だった。 ジェフリーは声もなくただ見惚れていた。 藤の枝代わりに持つ舞扇がひらりとひるがえり、 薄紫の光跡を残す。 とんと床を踏み鳴らし、 鮮やかな藤色の着物がすれる衣擦れの音が後を追う。 テープから流れる長唄の声と、 窓から流れ込む月明かりに照らし出される恭生の 舞い姿はその場を幻想的なものにしていた。 ジェフリーはその光景を瞬きすら忘れて見ていた。 ふと恭生の存在を遠く感じる。 ジェフリーは踊る恭生をむしょうに抱きしめたくてたまらなくなった。 抱きしめ、 その存在をこの手で確かめたい。 しかし陶酔した表情で踊る恭生の姿は、 ジェフリーが触れることを拒むかのようだった。 今恭生が臨んでいる世界は、 ジェフリーには決して立ち入ることの出来ない恭生だけの 世界だった。 ジェフリーは目の前で踊りつづける恭生をただただ見つめるだけだった。
目を閉じたまま、 まだ恭生の意識は舞いの世界から帰ってこない。 ジェフリーは静かに恭生の側に歩み寄ると、 彼の意識をこちらに呼び戻そうとぎゅっと 抱きしめた。 自分を抱きしめる腕に、 恭生はゆっくりと目を開ける。 「ジェフリー?」 呼びかけるが答える声はない。 「ジェフリー?」 「ああ……」 再度の声に小さく応えが返る。 「……とても、 綺麗だった。 まるで……」 幻のようだった、 と言葉を続けようとするが声がでない。 ただ自分の腕の中のぬくもりを抱きしめることで、 大切な者の存在を確かめるだけだった。 そんなジェフリーをどう思ったのか、 恭生は微笑みながら彼に語りかける。 「……俺さ、 今日皆の舞台を見てすごく踊りたくなった。 でもただ踊るんじゃなくて、 お前に、 お前だけに見て欲しいって思ったんだ。」 恭生の言葉にジェフリーははっと顔を上げた。 熱く潤んだ目がじっと彼を見つめていた。 「3年前の ”藤娘” を見てお前は俺を好きになってくれた。 でもその気持ちはお前の中では ずっと優生という名前の人間のものだった。 だから、 もう一度最初から…… お前が ”藤娘” を見たときからやり直して、 今度は恭生という名前で俺を好きになって欲しいと思ったんだ。」 「恭生……」 ジェフリーはたまらず恭生を強く抱きしめた。 抑えこんでいた自制心の枷が外れる。
気がつくと恭生を床板に押し倒し、 激しく唇を求めていた。 |