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  誰もいなくなった稽古場で恭生は一人ぽつんと立っていた。

  じっと舞台を見つめる。

  知らず知らず笑みが浮かんでくる。

  こんなに充実した気持ちは久しぶりだった。

  数十分前踊っていた時の昂揚した気分がまだ残っていた。

  あんなに舞台に立つことに不安を感じていたことが嘘のようだった。

  自分が3年間も踊りから目をそむけていたことが、 忘れようとしていたことが馬鹿みたいに思える。

  今恭生の心の中には踊りに対するわだかまりが全て消えていた。

  素直な気持ちで自分の心と向き合ってみると、 残っているのは踊ることが好きだということだけだった。

  舞台に立って踊ることが出来なくても、 大勢の人々の賞賛がもらえないこともどうでもよかった。

  自分はただ踊りたかったのだ、 こんなにも。

  そのことにようやく気付いた。 

 



  ふと背後に人の気配を感じた。

  振り返ろうとする前に、 後ろからそっと抱きしめられる。

 「……ジェフリー?」

 嗅ぎ慣れたコロンの香りに名を呼ぶが、 後ろから恭生を包むように抱きしめる腕の主は黙ったまま

何も答えなかった。

 「なんだよ、 どうしたんだ?」

  自分を包む腕の優しさに恭生は振りほどく気になれず、 そのままそっと振り返ろうとしたが、 自分

の肩にジェフリーが顔をうずめているせいで顔を後ろに動かすことができなかった。

 「ジェフリー?」

 「……うん。」

  再度呼びかける声にようやく短い返事が返る。

 「どうかしたのか?」

 「うん……」

  問いかけるても同じ返事しか返ってこない。

  恭生の肩に顔をうずめたまま静かに抱きしめてくる。

  恭生は、 しかし無理に問う気にもなれず、 あとはそのままジェフリーの好きなようにただ黙って

背中から伝わる体温を感じていた。





  自分の好きな相手は始めから恭生だった。

  逸生からその事実を告げられたとき、 ジェフリーはあまり驚かなかった。

  それどころか、 やっぱり、という気持ちがあった。

  心のどこかでわかっていたのかも知れない。

  自分が一目ぼれした相手が恭生だということに。

  だからあれほど彼に心が惹かれたのだ。

  空港で初めて恭生を見たときに湧き上がった喜びと愛しさは嘘ではなかったのだ。

  今腕の中に恭生を抱きしめながら、 ジェフリーはあふれ出てくる彼への愛しさを押さえきれずに

いた。

  知らず抱きしめる腕に力がこもった。

  このままずっと離したくなかった。

  恭生に自分が好きなのは、 ずっと好きだったのは彼だけだったのだと伝えたかった。

  しかしその事実を伝える気はなかった。

  今恭生はやっと自分の彼への気持ちを受け入れ始めてくれている。

  自分の言葉が嘘ではないと信じ始めている。

  そんな時に実は最初から好きだったのは恭生本人だったのだと、 あの ”藤娘” を踊る恭生に

一目ぼれしたのだと伝えたらどうなるだろう。

  もしかしたら優生のことへのわだかまりが消えて喜んでくれるかも知れない。

  しかし今度は踊りに対するわだかまりが出来てしまうかもしれない。

  踊っている恭生に惹かれたのだと思ってしまったら……。

  踊ることをあきらめてしまった自分を嫌悪するようなことになったら……。

  もうこれ以上恭生に不安を与えるようなことはしたくなかった。

  それにジェフリー自身そんなことはどうでもよくなっていた。

  最初に一目ぼれしたのは確かに踊っている恭生の姿だった。

  しかし今自分が好きなのはそれだけではない。

  恭生自身が、 いままで自分の前で笑ったり怒ったり悩んだりした生身の恭生が好きなのだ。

 「ジェフリー?」

  黙ったままのジェフリーに恭生が不審気に呼びかける。

 「うん……」

  しかしジェフリーは今にもあふれ出そうになる想いを押さえるのに精一杯で、 ただそう答えること

しか出来なかった。