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 「アレルギーなんだ。」

  逸生はそう言った。

 「舞台に立つとき化粧をするだろう。 あの白塗りがだめらしい。 小さい頃はそんなもの持ってなかっ

たんだけどね。 中学2年のときに突然アレルギー症になった。」

  最初は軽いものだった。 舞台の後に軽い湿疹が出るくらいで、 医者に処方してもらった塗り薬で

すぐに治まっていた。 それがだんだんとひどくなり、 湿疹だけでなく発熱するようになった。 その頃に

なると医者の処方箋ではなかなか治まらなくなり、 体質改善も試みたが効果なかった。

 「最後にはひどい発熱から呼吸不全まで起こして、 舞台に立つことすらままならなくなったんだ。」

  ジェフリーは呆然と話を聞いていた。

  「僕達家族皆、 恭生の病気で悩んだけどね、 恭生自身が一番苦しんでいたよ。 それまでのあいつ

は踊りが生活の中心だったから。 何度も舞台に立とうとしては発熱して倒れて……悩んで悩んで夜も

眠れないくらいだった。 とうとう自分のアレルギー症が直らないと納得した時には、 やつれ果ててろくろ

く口もきかなくなっていたよ。」

 「でも、 化粧ができなくて舞台に立てなくても、 踊り自体ができなくなったわけでは……。」

  そう言うジェフリーの言葉に、 逸生は薄く笑った。

 「ジェフリー、 一度舞台に立つとね、 あの快感は忘れられなくなるんだよ。 そりゃあ踊るだけなら

どこでだってできる。 この家の稽古場でもどこでも。 でもね、 何の為に踊るのかって考えちゃうんだ

よ。 純粋に踊りだけで満足できればよかったんだけど、 僕達はそうじゃない。 こんな家元の家に

生まれるとね、 小さい頃から人に見せるために踊るのが当たり前になるんだ。 人より上手く華やかに

踊り、 他人の賞賛を浴びて。 特に恭生は僕達の中で一番踊りの才能があったし、 あいつ自身踊る

ことが好きだったから、 その想いが強かったと想うよ。」

  逸生はそこで一息つくように、 深いため息をついた。

 「だから舞台に立てないと悟った時、 踊りそのものをすっぱり諦めるしかなかったんだ。 というか

恭生の性格では、 中途半端に踊りにしがみつくことにあいつ自身のプライドが許せなかったんだと

思うよ。 それに万一続けていたとしても、 この家ではね。 たくさんのお弟子さん達も、 いくら実力が

あっても表に出て来れない者に師事することはできないし、 そうなると恭生の立場も複雑になる。

それからは君の見たとおり、一人離れに住んで踊りとは無関係の生活をしている。 僕達もあいつには

表面上は何事もなかったように普通に接している。 踊りの話しを避けることはできないからね。」

 「……だから俺、 お前が来たとき良かったって思ったのに。 お前にもそう言ったのに。」

  優生はまだ時々しゃくりあげながら言った。

  ジェフリーは逸生の話を聞きながら、 昨日の恭生の姿を思い出していた。 じっとかんざしを見つめて

いた恭生。 ジェフリーにかんざしを返すとき、 その手はかすかに震えていなかったか。 「向いていない」

と軽く言った彼が、 そのときどんな気持ちだったのか。

  そして先程自分が言い放った言葉。

  彼は決して簡単に踊りをやめたわけではなかったのだ。

  それまで生活の中心だったものを諦めるしかなかった彼は、 どんなに苦しんだことだろう。

 「俺、 恭生にひどいことを……。」

 「そうだね。 恭生にとっては一番言われたくない言葉だっただろうな。 簡単に、 なんて。 今更言わな

かったことにもできない。 でも取り消せることはできるよ。」

  顔をゆがめるジェフリーに逸生はそう言った。

  逸生の言葉に、 彼ははっと顔をあげた。

 「俺昨日言ったろ、 恭兄さんを頼むって。 今度こそ本当に頼むよ。」

  優生も怒ったような声で言う。

  そう言う優生の顔を見ながら、 ジェフリーは自分が優生の泣き顔を見ても、何も感じていないことに

気付いた。 日本に来るまであんなに焦がれていた優生。

  しかし今のジェフリーの頭の中は恭生のことでいっぱいだった。

 ”そうか、 今俺が一番大事なのは……”

  やっと自分の想いがどこに向いているのかわかったジェフリーは、 二人への謝辞もそこそこに

恭生のいるだろう離れへと急いだ。

  自分の言葉に傷ついているだろう彼に、 少しでも早く詫びるために。

  そして、 自分の今の気持ちを伝えるために。