君が好き

 

 

   

  罪悪感に苛まれながらも続ける多谷とのメール。

  朔巳の毎日は大学とバイトと、 そして夜に続けられる密かなメールのやり取り、

ただそれだけだった。

  弟が死に気遣う友人達が何度か遊びに誘ってくれたが、 気乗りしない朔巳が

断っているうちにその誘いもいつのまにか途絶えてしまった。

  だんだんと友人達の輪から外れていく自分。

  だが、 今の朔巳にはそんなことを気にする心の余裕さえなかった。

  朔巳は自分自身に違和感を感じ始めていた。

  毎夜、 弘海の振りをするうちにだんだんと自分が見えなくなっていく。

  今パソコンに向かってキーを叩いているのは自分なのか、弘海なのか、

頭の中が混乱するときがあった。

  弘海が自分の中のどこかに潜んでいるのではないか。

  ここにいるのは自分ではなく弘海ではないだろうか。

  そんな錯覚に陥りそうになる。

  ふと、 大学の授業中に、 バイト中に周りにひどい違和感を覚える。

  今ここにいるのははたして誰なのか。

  自分の存在自体に疑問をもつ自分がいる事に気付く。

  朔巳は、 それでも弘海の振りを止めることが出来なかった。

  いつしか多谷にメールを送ること、それ自体が朔巳の生活の中心になっていた。  







  そんなある日、 思わぬ出来事が起こった。







 「あれ? 栗原教授は?」

  突然研究室に響いた声に朔巳はびくっと顔をあげた。

  その声に聞き覚えがあったのだ。

  入り口を見ると、 思った通りの姿があった。

  「……あんた一人か? 教授や他の人は?」

  多谷はそう言いながらもずかずかと研究室内へと入ってきた。

  朔巳はあわてて読んでいた本を閉じて立ちあがった。

 「教授ならさっきお昼に……他の人達も。 俺はもうすませたから。」

 「一足違いか……。 俺、この後授業あるんだよな……仕方ない、出直すか。」

  出て行こうとしてふと振りかえる。

 「そうだ、 教授が戻ってきたら伝えてくれないか。 ちょっと探している本が

あるんだけど、 教授が持ってるって聞いたんで貸してもらえないかって。」 

  そう言って告げられた本の題名に、 朔巳は手もとの本を見下ろした。

 「……もしかして、 この本のことか?」

  多谷は差し出された本の題名を見てぱっと破顔した。

 「ああ、 これだ。 やっぱり持ってたんだな。」

 「……でも教授、 今日はもう帰られるんじゃないかな。 この後授業はないし

何か用事があるっておっしゃってたから……」

  朔巳がおそるおそる告げると、 多谷は大げさに顔をしかめた。

 「困ったな。 俺どうしても次の授業外せないんだよな……でもこの本早く

読みたいし……」

  どうしようかと本を手につぶやく多谷に、 朔巳は思わず言っていた。

 「……よかったら俺、 教授に頼もうか。 次何もないし、 教授が帰ってくるの

待って本を借りたら君のところに持っていくよ。」

 「いいのか?」

  嬉しそうな多谷の問いかけに朔巳は大きく頷いた。

 「そういえば、 まだ名前言っていなかったな。 俺、 2年の多谷だ。」

 「俺は河野……同じ2年。」

 「2年? じゃあまだゼミ生じゃないんだな。 ……年上には見えないなと

思ってたけど。」

  多谷の問いに朔巳はあいまいに笑う。

 「栗原教授とは懇意にしてもらっていてよく本を貸りるから……」

  やはり彼は覚えていないのだ。

  入学式にちょっと会っただけの自分のことなど。

  分かっていても、 多谷の言葉は朔巳には痛かった。

  多谷の中では、 自分という人間は今まで存在さえしていなかったのだと

思い知らされたから。 

 「……どこに持っていけばいい?」

  痛む心を隠して朔巳は多谷に笑って言った。

  多谷は朔巳を見ながら少し黙っていたが、 ああ、と言った。

 「正門の近くに ”ドイル” って喫茶店あるだろう。 そこに2時でいいか?」

  朔巳は承知したと頷いた。

 「悪いな。」

 「いいよ、 どうせこの後ヒマだったし。」

  朔巳の言葉に多谷はにっこりと笑うとじゃあな、 と研究室を出ていった。

  多谷が出ていった後、 朔巳は見下ろして自分の手がかすかに震えて

いることに気付いた。

  胸がドキドキと激しい鼓動を打っている。

  多谷と二人きりで話したのだ。

  そして、 また彼と会える。

  会う約束をした。

  それが些細な理由であってもよかった。

  初めてまともに彼と話が出来たのだ。

  思わず笑みが浮かぶ。

  朔巳は研究室の中に立ったまま、 喜びをかみ締めていた。