君が好き

 

29

 

 

 

    朔巳は一晩中眠れぬままぼんやりと真っ暗な部屋の中で座りこんでいた。

  何も考えられなかった。

  ただ多谷が出ていった時の玄関の閉まる音だけが頭の中に何度も響いた。

  そして部屋を出て行く時の朔巳の目を決して見なかった顔が……。

  ぼんやりとしたまま、 机の上にあるパソコンを見る。

  これで本当に彼との繋がりはこの小さな機械だけになってしまった。

  この中に届くメールだけが自分と多谷を繋げるものなのだ。

  ふらふらと机に近寄り、 腕の中にパソコンを抱え込む。

  冷たい金属の感触が肌に伝わる。

  じわじわと心の中まで冷えていくようだった。

 「……大丈夫。 大丈夫だよ、 弘海……ちゃんと和春には伝えるから……。 和春は

絶対お前のことを忘れないから………」

  冷たい機械を抱きしめて、 弟の名をつぶやく。

 「大丈夫……」

  また涙が溢れてくる。

  胸がきしむように痛む。

  それでも朔巳はただ大丈夫、 とつぶやき続けた。

  彼を取ったりしない、 だから許して……心の中で、 彼を思うことだけは許して、 と。

  頬を伝う涙が、 鈍く光る金属の上を流れ落ちた。









  翌朝、 朔巳の様子が気になった伊勢は、 家まで彼を迎えに行った。

  朔巳の顔を見て驚く。

 「朔巳……?」

  ほとんど血の気のない青ざめた顔で、 それでも朔巳は笑っていた。

 「……おはよう、 わざわざ来なくてもいいのに。」

 「なんだよ、 お前その顔……大丈夫か? 今日は休んだ方が……」

  今にも倒れそうなほど儚く見える彼に、 伊勢は不安を覚えた。

  もしかして自分は間違ったのだろうか。

  多谷に全てを話して、 彼に朔巳を……。

  そんな考えがふと頭をよぎる。

 「大丈夫だよ。 今日は専門の講義があるから行かないと……」

 「……辛くなったらすぐに言えよ。 いつでも俺の携帯鳴らすんだぞ。」

  しつこいほどに言いながら、 伊勢は朔巳に大学まで付き添った。

 キャンパスを歩いていると、 突然朔巳が歩みを止めた。

 「朔巳?」

  その目はじっと前方を凝視していた。

  見ると、 多谷が友達と談笑していた。

  視線に気付いたのか、 ちらりとこちらを見た。

  しかし朔巳とその横にいる伊勢の姿を目にすると顔を強張らせ、 すぐに首を

元に戻した。

  何事もなかったかのように友達との話を続ける。

 「……なんだ、 あいつ。 こっちに気付いたくせに。」

  多谷の不審な態度に伊勢は眉をひそめた。

  隣で朔巳が棒立ちになっていた。

 「朔巳?」

  呼びかけても返事をしない。

 「おい、 朔巳どうした? 朔巳っ」

  肩を揺さぶるように呼ぶと、 やっとのろのろと顔を向ける。

 「……英俊………」

 「大丈夫か? やっぱり家に帰ろう。」

  血の気の失せた顔に伊勢は慌てて朔巳の体をその腕で支える。

  朔巳は呆然とした表情のまま、 伊勢の腕をぎゅっと掴んだ。

 「……帰る……英俊、 家に……連れて帰って……」

 「ああ、 すぐに帰ろうな。」

  か細くつぶやく声に、 伊勢の不安が大きくなる。

  こんなにおかしい朔巳は初めてだった。

  自分が今どこにいるのかも認識していないようだった。

  ただ立っているのがやっという様子に、 ここが大学のキャンパスだということも

忘れて朔巳をその腕に抱き寄せる。

  抱えるようにして大学を出ると、 近くを流すタクシーを捕まえて家へと向かった。