君が好き

 

15

 

 

    図書館へ行くという多谷と一緒に学食を出ようとした時、 朔巳は自分の名を呼ぶ

声に足を止めた。

 「やっぱり朔巳か。 どうしたんだよ、 この頃全然顔見せないじゃないか。」

  声の主は友人の伊勢だった。

  伊勢は朔巳の背後にいる多谷をちらりと見ると怪訝な顔をした。

 「お前、 多谷と仲良かったっけ?」

 「あ、 ああ……ちょっと、 つい最近……」

 「ふ〜ん。」

  伊勢は朔巳の曖昧な返事に何か考える素振りを見せたが、 それ以上何も問いては

こなかった。

 「まあいいや。 それより、 もういいのか? 大変だったんだろう? お前んち……」

 「う、 うん……もう大丈夫だから……ごめん、 心配かけて……」

  朔巳は返事をしながらも、 伊勢が弘海のことを言い出さないかとひやひやしていた。

  伊勢は中学の時からの付き合いで、 数少ない友人の一人だった。

  当然、 弟の弘海のこともよく知っていて、 彼の死からずっと元気のない朔巳のことを

ずいぶん心配してくれていた。

 「なんだかお前ちょっと痩せたみたいだぞ。 ちゃんと食べてるのか?」

  今も久しぶりに見る朔巳の姿に心配そうな目を向ける。

 「食べてるよ。 心配症だな、 英俊も。」

  過保護な口調に思わず苦笑する。

 「悪いかよ。 心配もするだろう。 お前、 弟が……」

 「英俊!」

  伊勢の口から弘海のことが出そうになり、 朔巳は慌てて言葉を遮った。

 「ご、 ごめん、 あいつのことはまだ……」

 「あ、 ああ……俺もすまん、 無神経だったよ。 まだそんな日が経ってないのに……」

  珍しい朔巳の大声に驚きながらも、 伊勢は素直に謝った。

 「じゃあ、 俺、 次授業あるからもう行くけど……今夜にでも電話するから。」

 「わかった。」

  伊勢はもう一度多谷にちらりと目を向けると、 そのまま校舎の方へと歩いていった。







 「今の奴、 経済の伊勢だろう。 ずいぶん仲良いんだな。」

  伊勢の姿が視界から消えると、 それまで黙っていた多谷が口を開いた。

  その声にはっと顔をあげると、 じっと伊勢の消えた方向を見つめている。

 「知ってるのか?」

 「そりゃあ、 結構有名だろう。 経済の伊勢って言えば校内でも女に人気があるって

いうので。」

 「人気、 あるのか?」

 知らなかった事実に朔巳は目を丸くした。

 「知らないのか? お前、 ホントそういうことに疎いんだな。」

 「疎いって……そりゃあ、 あいつ確かに高校の時もよくモテてたけど……」

  高校の時だけではなく、 初めて出会った中学の時から伊勢の周りは常に女の子達で

華やかだった。

  茶色がかった髪を少し長めに伸ばした彼は見た目には軽く見えるが、 その実、

文武両道のつわもので、 生徒会の役員を務めたりと教師の覚えも良かった。

  そんな彼と自分が友人であることを不思議に思ったこともある。

 「付き合い長いようだな。」

 「英俊とは中学からの友人だから……」

 「英俊……ね。」

  多谷は何故か朔巳の言葉に顔をしかめた。

 「多谷……?」

  朔巳は急に不機嫌そうになった多谷を不安そうに見た。

 「河野、 お前下の名前、 朔巳っていうんだな。」

  いきなり多谷が朔巳を振り返った。

 「あ、 ああ……」

  突然何の脈絡もないことを言い出されて、 朔巳は訳がわからないまま頷いた。

 「俺もそう呼んでいいか?」

 「え?」

  何を言われたのかとっさに理解できない。

 「だから、 俺もお前のこと、 これから朔巳って呼ぶぞ。 いいだろう?」

  もう一度、 確認するように言われてやっと理解する。

  と同時に頬が赤くなるのを感じた。

 「何赤くなってんだよ。」

  そんな朔巳を見て多谷がからかうように笑った。

 「で、 でもっ 多谷っ」

 「多谷じゃない、 お前も下の名前で呼べよ。」

 「し、 下って……」

 「なんか苗字って他人行儀な感じでやな気がしてたんだよな。 ほら、 呼んでみろ。」

 「そんな……」

  自分の名を呼ぶように促がす多谷に、 朔巳は真っ赤になってうろたえた。

 「名前呼ぶだけで何照れてんだよ。 あ、 俺の名前知らないか? 和春だぞ。」

  ほらほら、 と多谷がせっつく。

 「……か、 和…春。」

 「よし。」

  促がされるようにつぶやいた名に、 多谷は満足そうに頷いた。

 「じゃあ、 行くか。」

 「え?」

  いきなり話が変わり、 朔巳は多谷の思考についていけない。

 「図書館だよ。 お前も行くって言ってただろう。」

 「あ、ああ。」

 「ぐずぐずしてると先に行くぞ。 早くしろよ、 朔巳。」

  当然のように呼ばれる自分の名に、 朔巳はびくっとした。

  多谷はもうすたすたと先を歩いている。

  その後ろ姿をじっと見つめる。

  少しして、 朔巳はゆっくりと歩き出した。

  多谷の背中を見つめながら、 その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。