夜の扉を開いて
27
「………さっきまで前の病院の後輩の斎藤と飲んでいた」 斎藤、 という名に藤見がはっと驚いたように顔を上げた。 その顔に瀬名生はやっぱり、 と得心した。 やはり、 藤見と自分とは接点があったのだ。 あの自分が忘れてしまった夜の……… 「斎藤と藤見先生、 同じ大学だったんだな………あんた、 俺の後輩だったんだ…」 「………それが何か……?」 藤見が静かな声で訊ねた。 「私が瀬名生先生の後輩だったことが何か………?」 問いかける声の平静さとは裏腹に、 その手は白くなる程固く握り締められていた。 その手を目に留めながら瀬名生は言葉を続けた。 「……俺は先生とは今の病院に移ってきた時に初めて会ったんだと思ってたよ。 ……………… ………でもそうじゃなかったんだな」 「なんの……ことでしょうか」 「俺と先生は会ったことがあったということだ………そうだろう?」 「…………」 問いかける声に藤見は何も答えなかった。 しかしかすかに震える唇が答えを物語っていた。 「藤見先生………あの夜、 俺とあんたは二人でどこかに消えたと斎藤は言っていた。 俺は その時のことを酔ってて覚えていない。 ………覚えているのは、 朝、 一人で起きた時のこと ………前の夜、 隣に誰かがいた、 誰かを抱いたというかすかな記憶だけだ」 抱いたという言葉に藤見の体がびくりと揺れた。 それを見た瀬名生は自分の考えが間違っていなかったことを知った。 ………………あの夜、 自分が抱いたのはこの藤見だったのだ。 愛しさと後悔が胸の内にこみ上げてくる。 押し寄せる感情に息が詰まりそうになる。 目を閉じ震える息を吐いて、 瀬名生はまた口を開いた。 「……どうしてあの朝黙って出ていったんだ? …………どうして何も言ってくれなかった…?」 「………何の話をおっしゃっているのか私にはわかりません」 「藤見……っ!」 瀬名生の言葉に、 しかし藤見は固い口調で拒絶を示した。 「わざわざそんなことをおっしゃるために、 この夜中にここに来られたのですか? それだけ でしたらもう、 お帰りください」 「藤見!」 「帰って…ください…っ」 立ちあがり玄関へ向かおうとする藤見の腕を瀬名生はぐいと引き留めた。 「どうして………何故否定する? お前なんだろう? あの時の……」 「知りませんっ!」 激しいほどの口調で藤見は瀬名生の言葉をさえぎった。 「知りません………知…らない……知らないっ! あなたなんか知らないっ!!」 「藤見……っ!」 「帰ってくださいっ!」 激しく自分を拒絶する藤見の姿に瀬名生は心が暗く冷えていくのを感じた。 藤見の拒絶の激しさは、 そのまま彼の心の傷の深さを表わしていた。 自分が彼を傷つけたのだ。 そしてそれを知らず、 彼の体をあんなに……… 何も知らずに藤見をベッドの中で弄んだことを思い出す。 自分に冷たい態度を取る姿にただ腹を立てて、 その感情のままに彼の体を、 彼がベッドの中で乱れ涙を流す姿を楽しんだのだ。 彼の心も知らず……… 今、 自分に向けられた藤見の背中は、 完全に自分を拒否していた。 心の中に絶望が押し寄せる。 自分は間違ったのだ。 彼を一度ばかりか、 二度までも傷つけた。 「…………悪かった…」 愛しい背中に向かってつぶやく。 その背が小さく揺れた。 しかし藤見がこちらを向くことはなかった。 「帰るよ………」 細い体が頼りなく目に映る。 その背を抱き寄せたい衝動に駆られながら、 瀬名生は自分にはもうその資格がないことを 知っていた。 悔恨ばかりが心をめぐる。 自分にたいして嫌悪すら感じながら瀬名生は静かに玄関に足を向けた。
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