夜の扉を開いて
23
食事から戻った瀬名生は藤見の姿がないことに眉をひそめた。 「……帰ったのか?」 しかし机の上は片付いてはいたが、 鞄などがそのまま置いてある。 食事に行ったのかと思ったが、 今自分が出てきた食堂からここまで彼に会っていない。 「どこに行ったんだ」 食事は断られたが、 今日こそは藤見とちゃんと向き合って話をしてみようと思っていた。 だからすでに帰る準備が出来ていたにもかかわらず、 まだ仕事が残っている振りをして 藤見が終わるのを待っていたのだ。 もうそろそろいいだろうと藤見の終わる頃を見計らって部屋に向かった。 なのに戻ってみると彼の姿はなかった。 「あら、 瀬名生先生。 まだ残っていらっしゃったんですか? 今日は夜勤じゃないですよね」 しかめ面で藤見の席を睨んでいた瀬名生の背中に、 見まわりから戻ってきたらしい看護婦 の声がかかった。 「ああ………そうだ、 藤見先生知らないか?」 「藤見先生? ………そういえばさっきロビーにいらしたような……」 「ロビー? どうしてそんなところに……」 「さあ、 なにかぼんやりと座ってらしたけど」 「ロビーだな サンキュ」 瀬名生は彼女に礼を言うと、 ロビーへと足を向けた。
と腰掛けていた。 その力ない姿に瀬名生は眉をひそめた。 そっと彼を脅かさないように近づく。 近寄って見ると、藤見は静かに涙を流していた。 「藤見……先生?」 思わず声をかけてしまう。 その声にはっと振りかえった藤見がそこに瀬名生の姿を見つける。 慌てて手のひらで涙を拭う様子に、 瀬名生は胸が締め付けられる感覚を覚えた。 どうした、 こんなところで 問いかけそうになりながらも黙って隣に腰を下ろす。 無理に聞きたくはなかった。 ただ一人で泣かせたくはなかった。 黙ってポケットからタバコを取りだし、 火をつける。 瀬名生が吐き出した白い煙がたなびきながら空に薄れていくのを藤見はじっと 見つめていた。 何も口にしない。 瀬名生もまた何も聞かなかった。 ただ二人黙って座り続けていた。 遠くで夜勤の者達の話し声だろうか、 人のざわめきが聞こえる。 「………さっき、 患者が亡くなったんです。 私が以前担当していた……癌で、 あの時は 治ったと思ったのに、 再発して、 進行癌で、 それも場所が悪くてオペできなくて……」 「そうか………」 「初めてオペを担当した患者だったんです。 とても優しい人で、 初めての大きなオペに 緊張していた私に笑いかけてくれて……自分も不安だっただろうに。 だからオペが 成功して無事に退院していく姿を見て嬉しくて…………あと半年だったのに。 半年で 5年だったのに……! 5年間再発しなければ……」 ぽつぽつと話し出した藤見に、 瀬名生はただ相槌を打つだけだった。 「まだ若い女性で……小さな子供がいて………母親が死んでしまったのに理解できなくて ずっと起こそうとしているんです」 不思議そうに自分を見て 「お母さん、 どうして起きないの? お医者さん、 お母さん 元気になった?」 と問いかける顔を思い出す。 「絶対元気になるよって……早くお家に帰ろうねって、 子供に言っていたのに……… ただ見ているだけで何もできなかった……助けてあげられなかった………っ」 こらえきれず嗚咽を漏らす藤見に、 瀬名生はそっと手を伸ばした。 そのまま藤見の頭を抱え込むようにして自分の胸に押しつける。 その手を藤見は撥ね付けようとはしなかった。 おとなしく瀬名生の胸に顔を埋める。 「………仕方ない。 俺達も万能じゃないんだ。 手を尽くして、 それでも助からない人も いる」 「でも……っ」 「お前は悪くない。 悪くないんだ」 瀬名生の静かな言葉に藤見は堰を切ったように泣き出した。 胸に顔を埋め、 必死に嗚咽をこらえながら涙を流し続ける藤見の身体を片手でそっと 抱きしめてやる。 腕の中にいる藤見が頼りなく儚く見えた。 胸の奥から温かいものが沸き起こってくるのを感じる。 守ってやりたい。 そう思った。 患者のために涙を流す藤見を、 胸の中に優しい心を秘めた藤見を守ってやりたかった。 その顔にあの温かい笑顔を浮かべて欲しいと思った。 ……ああ、 自分はこんなにも彼に惹かれていたのだ。 瀬名生は初めて、 藤見を愛しいと思っている自分を自覚した。
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