夜の扉を開いて

 

22

 

 

 

   「飯に行かないか。 藤見先生もまだしばらく残って仕事だろう?」

  そう自分に話しかける瀬名生の声に、 藤見はピクリと肩を揺らした。

  まただ。

 「………すみませんが、 このカルテを書いてしまわなければいけませんので」

 「忙しそうだな。 何か手伝うことはあるか?」

 「いいえ……結構ですから、 瀬名生先生は先にどうぞお食事に行ってください」

 「そうか……じゃあ何か買ってきてやろうか? 今食いはぐれると夕食抜きになってしま

うぞ。」

 「結構です……これが終わると帰れますので途中何か買います」

  冷たく断る藤見に、 瀬名生の目に苛立ちが灯る。

 「……じゃあ先に行かせてもらうとするか」

  しかし何か皮肉を言われるかと身構えた藤見の予想とは異なり、 瀬名生はあっさりと

引き下がるとそのまま部屋を出ていった。

  瀬名生が出て行くと同時に緊張していた藤見はほっと息をついた。

  最近、 瀬名生は頻繁に自分に話しかける。

  それも今までのように攻撃的なものではなく、 どちらかというと自分と友好関係を結ぼうと

でもいうような気さくな話しかけ方だった。

  突然の瀬名生の態度の変化に戸惑いを隠せない。

  どのような態度をとればいいのかわからなくなる。

  これまでのように皮肉や敵意を含んだ言葉や態度で接してこられたのなら、 自分も冷たい

態度で迎えることがたやすかった。

  しかし親しげに話しかけられると、 もともと他人を傷つけることができない性格もあり、

いくら瀬名生といえどもそう無下に出来なかった。

  無視することも出来ず、 そうかといって彼の誘いに乗ることも出来ず、 素っ気ない態度で

断り続けるのが精一杯だった。

  しかしそんな藤見に瀬名生はときおり苛立ったような表情をするが、 以前のように強引な

態度に出ようとはしなかった。

  彼の部屋に連れていかれ、 強引に抱かれることもなくなった。

  藤見はそのことを不思議に思うと同時に安堵も覚えた。

  これ以上彼の腕に抱かれるのはそのまま感情のままに流されてしまいそうで怖かった。

  いくら固く縛めようと、 心のストッパーが外れてしまいそうだった。

  だから彼の誘いがぴたりとやんだことにほっとしたのだ。

  身体の奥がときおり思い出したように疼こうとも………

  しかし、 彼との行為がなくなってもそれでも自分に向けられる瀬名生の以前とは違う

態度には心を乱される。

  彼の意図がわからない。

  どうして急に態度を変えてきたのか。

  不安が沸き起こる。

  自分に向けられる親しげな笑顔につい心を奪われてしまいそうになる。

  だめだと何度も自分を戒めなければならないほどに。

  ついこの間、 彼に心を開くようなことはしないと心に決めたばかりだというのに……

  まだ心の中には彼への憎しみも残っている。

  そしてあの裏切られた時の耐えがたいほどの心の痛みも忘れていない。

  だめだ。

  また同じことを繰り返すのだけは………

 心の中で何度もつぶやいた言葉をまた繰り返す。

  しかし心の動揺を物語るように、 カルテに書きこむ手がかすかに震えていた。











  部屋の外から慌ただしくこちらに向かう足音が聞こえてきた。

  書き終わったカルテの束を整理して帰る準備をしていた藤見の目の前で扉が開かれる。

 「藤見先生っ!」

  入ってきたのは看護婦の園部だった。

  その張り詰めた表情に藤見の体もはっと緊張する。

 「園部さん………何か……?」

  そう問いかけながらも何が起こったのかわかったような気がする。

  以前、 この部屋で園部が持っていたカルテ。

  癌の再発を宣告された女性は前に自分が担当した患者だった。

  今回再発した場所が悪く、 藤見のいる外科ではなく内科に入った患者を、 藤見は

ずっと気にかけていた。

  だから何かあれば知らせてくれるように園部に頼んでいたのだ。

  予想に違わず、 園部の口から出たのは彼女のことだった。

 「伊藤さんの容態が急変して……」

  その言葉にさっと青ざめる。

  科学治療が思うように効果を上げず、 癌の進行が進んでいるのは知っていた。

  もはやどうにもならないだろうということも。

 「今、 手を尽くしてはいるんですが危険な状態で……」

  数週間前、 彼女の病室を訪れた時のことを思い出す。

  必ず治ると信じて自分を見ていた彼女の目が辛く、 逃げるように部屋を出た。

 「………すみません、 ちょっと………」

  いてもたってもいられず、 藤見は部屋を飛び出していた。









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