夜の扉を開いて

 

 

 

   「だいぶ経過は良いようですね。 この分だと思ったより早く退院できそうですよ。」

  藤見は壮年の男性ににっこりと微笑みかけた。

 「本当ですか? ありがたい。」

  男性はその言葉を聞くと顔を綻ばせて嬉しそうに言った。

 「それじゃあまたお薬出しておきますから。 必ず食後に飲んでくださいね。」

  藤見は側にいる看護婦に薬の指示を与えると、 別の病室へと向かった。

  ああ、 いい天気だな……。

  窓から差しこむ暖かな日差しにふと窓の外に目を向ける。

  だいぶ春めいてきた穏やかな風に誘われるかのように、 病院の中庭には

散歩をする人影がちらほらと見える。

  午後の巡回が終わったら、 休憩がてら日光浴でもしようか。

  そうつらつらと考えながら廊下を歩いていると、 自分を呼びとめる声がした。

 「藤見先生。」

  その声に振り向くと、 ニコニコと笑う副院長の姿があった。

  その後ろにたたずむ男に目をやった藤見は、 次の瞬間かすかに体を強張らせた。

 「ちょうど良かった。 先生、 本日からこちらに着任された瀬名生先生です。

瀬名生先生、 こちらは先生と同じ外科の藤見先生です。」

  紹介された瀬名生は、 藤見の顔を見るとにっこりと笑って手を差し出した。

 「はじめまして、 瀬名生です。 よろしく。」

  藤見はその言葉にすっと心の中が冷えていくのを感じた。

  ……この男はやはり自分のことなど少しも覚えていないのだ。

 「……はじめまして…」

  じくじくと痛む心を押し隠し、 藤見は冷たい表情を装って軽く頭を下げた。

  瀬名生は差し出した手を無視された形になり、 少し困った顔をしながらその手を

下ろした。

 「じゃあ、 私はまだ巡回がありますので……」

  藤見はそう言ってもう一度頭を下げると、 足早にその場を後にした。







 「……えらくそっけない人ですね。 まだ若い方のようですが。」

  瀬名生はさっさと歩き去る背中を見送りながら、 隣の副院長に苦笑いを向ける。

 「ああ、 藤見先生はねえ。 腕は良いし、 患者にはとても丁寧なんだが、 あの通り

普段はとても無口でね。 彼が看護婦や他の先生達と談笑しているところなど見た

ことが無いくらいだよ。」

  瀬名生は先程の藤見の姿を思い出す。

  185cmある自分より10cmは低いほっそりとした体。

  さらりと流した髪の毛は少し茶色がかっていて柔らかそうだった。

  ストイックにきゅっと結ばれた淡い紅色の唇。

  そして、細いフレームの眼鏡の奥の切れ長の目は、 無表情で冷たかった。

 「……まあ、 なんとか仲良くやっていけるといいですがね。」

  瀬名生はもう一度藤見の消えた方向にちらりと目をやると、 軽く肩をすくめた。







  巡回を終えて医務局に戻った藤見は、 喉の渇きを覚えてカフェに向かった。

  昼食を取っていなかったが、 今は食欲などなかった。

  カフェテリアの隅に席をとると、 手にしたコーヒーに口をつける。

  口の中に広がった苦味にほっと息をついた。

  ……どうして今ごろになって……

  何も知らぬ顔でにこやかに手を差し出した瀬名生の姿が目に浮かぶ。

  あの瞬間自分の心の中に男に対してかすかな憎悪をおぼえた。

  何も憶えていない彼が憎かった。

  もう一度コーヒーカップに口をつけようとして、 その手が震えていることに気付く。

  しばらく自分の手をじっと見つめると、 藤見は自嘲の笑みを浮かべた。

  ……結局、 自分はまだあの男を忘れられなかったのだ。

  自分を一度抱いたきり、 そのことすら忘れてしまったあの男を。

  7年前のことが脳裏によみがえってくる。

  藤見はあのときのことを思い出して、 また胸の奥がじくじくと痛み出すのを

感じていた。







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