夜の扉を開いて

 

19

 

   「瀬名生先生っ! 良かった、 家にいらっしゃったんですねっ」

  電話は病院からだった。

  近くの高速道路で事故が起こったらしい。

  高速バスを含む何台かが立て続けに追突し、 横転したバスに乗っていた乗客が

ひしゃげたバスの中に閉じ込められ、普通車に乗車していた人達も車に挟まれた状態の

者もいて、 現場は大惨事になっている。

  次々運び込まれる怪我人に救急班だけでは手が足りなく、すぐに病院にこれそうな医師に

片っ端から連絡を取っているのだと看護婦の切羽詰った声が言う。

  受話器の奥からも慌ただしい気配が伝わってきた。

 「すぐ行く」

  瀬名生は一言そう言って電話を切った。

 「病院からですか?」

  いつのまにかバスルームから出てきて様子を見ていた藤見が瀬名生に尋ねる。

  受話器から途切れ途切れ漏れる声を聞いていたのだろう。

  何か深刻なことが起こったのだと察し、緊迫した様子で瀬名生を見つめる。

 「玉突き事故だ。 手が足りないらしい。 すぐに病院へ向かう」

 「私も行きます」

  すぐさまそう応じた藤見の顔を瀬名生は一瞬凝視した。

  藤見の顔には先ほどの行為による疲労がまだ色濃く残っている。

  体は…と言いそうになって、それどころではないと考え直す。

 「……すぐ用意しろ」

  慌ただしく衣服を身につけた藤見とともに、 車で病院へと向かった。











  病院はたくさんの怪我人で戦場のようだった。

 「早く止血をっ 脈はっ!?」

 「そこっ 退いてくれっ 台が入らないっ」

 「痛いっ 痛いよおっ」

 「輸血の準備はどうしたっ!」

 「お母さんっ お母さんっ!」

 医師が指示を飛ばす声や怪我人のうめき声が溢れる院内に入るや否や、二人は

先任の医師の指示を仰ぐとすぐさま怪我人の治療にあたった。

 重傷のもの、軽傷のものが入り乱れる中を少しでも怪我人を救おうと動く。

  なんとか院内の様子が落ち着いたのは何時間も後のことだった。

  すでに空は白々と明けはじめている。

  右腕を複雑骨折していた患者を処置し、 整形外科へと送り出した瀬名生はふうっと

息をついた。

  周りを見ると、 ほぼ落ち着いたようだった。

  ふと、 藤見は、 と姿を探す。

  あの体で大丈夫だったのだろうか。

  かすかに案じながら目で辺りを探すが、 その姿はどこにもなかった。

  まさかどこかで倒れでも………

  瀬名生の顔が曇る。

 「藤見先生の姿見なかったかい?」

  思わず近くにいた看護婦に尋ねると、 彼女はちょっと首をかしげた後、 ああ、 と頷いた。

 「藤見先生なら外科でオペです。 内臓損傷の患者がいて江木先生と一緒に…」

 「オペ……」

 「瀬名生先生もお疲れさまでした。 少し休まれてはいかがですか? 自宅待機のところを

来られたのでしょう?」

 「ああ……」

  頷きながら瀬名生はちらりと時計を見る。

  5時25分

  彼女の言うとおり、 少し休んだ方がいいのはわかっていた。

  言っている間に通常の診察に入らなければならない。

  しかし藤見の体が心配でそのまま仮眠室に行く気にはなれなかった。

  どうしたものか、 と思っていると、 当の藤見が姿を現わした。

  患者の姿の見えなくなった救急センター内を見まわしている。

 「こちらは一応落ち着いた。 オペは?」

  近寄って話しかけると、 藤見が疲れの滲む顔を瀬名生に向けた。

  眼鏡の奥の目の下に隈が出来ている。

 「…………何とか助かりました。 出血が多くて一時は危なかったのですが……」

 「そうか」

  ぼんやりと答える藤見に手を差し伸べたくなる。

  その気持ちをなんとか抑えて白衣のポケットに手を封じる。

 「………少し休んだ方がいい。 今日は昼からだろう、 家まで送っていこう」

  そう告げる瀬名生を怪訝そうに見る。

 「でも、 先生ももうすぐ………瀬名生先生こそ少しお休みに……」

  気遣わしげにそう言いかけて、 はっと口をつぐむ。

  思わず言ってしまったとばかりに唇を噛む。

  瀬名生は自分を気遣う藤見の言葉を初めて耳にして、 心の中がくすぐったくなった。

  何故か嬉しくなる。

  その気持ちのまま気まずそうな藤見に微笑みかける。

 「俺なら大丈夫だ。 かえって外の空気を吸ったほうが気分転換になる」

 「………結構です。 すぐ近くですし、 一人で帰れますから」

 「そんなふらついた体でか?」

  その言葉にきっと瀬名生を睨みつける。

 「あなたと一緒に帰るよりましです。 放っておいてください」

 「おい」

  そう静かに言い捨てて背中を向ける藤見に瀬名生は声をかけるが、 彼は振り向こうと

しなかった。

 そのまま出口へと歩を進める。

  その頑なに自分を拒む背中は細く頼りなく見えた。

  しかし瀬名生はそれ以上藤見をひきとめようとはせず、 彼の去っていく後ろ姿を

ただ見つめていた。

  またいつものようにかすかな苛立ちを感じてはいたが、 先ほど藤見の口からふと漏れた

労わりの言葉がその苛立ちを消した。

  瀬名生は彼の心の中にある優しさを初めて知った気がした。









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