夜の扉を開いて

 

15

 

 

 

    瀬名生の部屋で夕食を共にした日から、 藤見はますます彼に頑なな態度をとるようになった。

  廊下ですれ違っても挨拶すら交わすことは無い。

  医務局に入ると、 何か用事があるかのように部屋を出て行く。

  仕事上どうしても話をしなければならない時は表面上は平然と言葉を交わすが、

決して瀬名生と目を合わそうとはしない。

  そして終わるとさっさとその場から立ち去った。

  藤見は怖かった。

  これ以上瀬名生に近づくと、 何か取り返しのつかないことになりそうな気がした。

  あの夜の穏やかに微笑む瀬名生の姿が何度も脳裏に浮かぶ。

  自分に向けられた笑みが、 藤見の長い間凍りついていた心を揺さぶる。

  それが恐ろしい。

  7年前、 藤見は立ち直れないかと思うほどの痛手を受けた。

  幸せの絶頂から叩き落とされた、 あの時の衝撃は忘れることはできない。

  瀬名生への想いが深かった分だけ、 藤見の心の傷は大きかった。

  あの後、 長い間呆然と自失していた日々を送った事を思い出す。

  自分が生きていることの意味さえわからなくなっていた。

  やっと心の奥に傷を封じこめることができるようになったときには、 藤見はそれまでの

ように素直に笑うことも人を見ることもできなくなっていた。

  それは今も変わらない。

  だが、 藤見はそれでいいと思っていた。

  傷つくくらいなら、 もう何も感じたくないと。

  だから、 あの時の傷を思い出させる瀬名生とはもう近づきたくなかった。

 









  瀬名生は医務局で一人コーヒーを飲みながら、 苛々とした気分をもてあましていた。

  原因はわかっている。

  藤見のせいだ。

  近頃、 彼の態度は一段と冷淡になった。

  全身で自分を拒絶しているような印象を受ける。

  いや、 間違い無くそうなのだろう。

  俺が何をしたというのだ。

  いや、 何かをしたというのなら強引に彼を抱いている事は彼にとって不本意なことだろう。

  しかし、 それもここしばらくは控えていた。

  あまりにも疲れた藤見の様子を気遣い、 少しでも彼が休めるようにと声をかけなかったのだ。

  なのに、 彼の態度は硬化する一方だ。   

  彼を捕まえて揺さぶってやりたい思いに駆られる。

  あの冷然とした態度を壊してやりたい。

  決して自分を見ようとしない彼の視線をこちらに向けさせてやりたい。

  何故こんなに自分は嫌われなければならないのか。

  気に入らないというにはあまりにも酷い彼の態度に瀬名生の気分は下降するばかりだ。

  訳がわからない。

  むしゃくしゃした気分を振り払おうと、 ぐいっとカっプを傾ける。

  と、 一人きりだった部屋に誰かが入ってきた。

  目をやると、 今まで自分が苛立っていた本人だった。

  藤見は瀬名生の姿を見ると一瞬その場に立ち尽くし、 さっと踵をかえしてそのまま無言で

出て行こうとした。

 「待てよ」

  瀬名生が許さず声をかける。

  その声の不穏な響きに、 藤見は思わず立ち止まった。

 「座ったらどうだ、 藤見先生。 回診は終わったんだろう」

  言葉の上では勧めながら有無を言わさないその口調に、 藤見は逃げることもできず、

仕方なく椅子に腰を下ろした。

  しかしそのままじっと下を向いて手元の書類を眺めたまま、 何も話そうとしない。

  その人を無視した態度に瀬名生の苛立ちが募る。

 「……今コーヒーを淹れたばかりなんだ。 飲むか?」

  それでも何とか苛立ちを押さえて問う。

 「結構です」

  しかしそれも藤見のにべも無い返事にぷつりと切れる。

  つかつかと藤見の方に近寄ると、 ひたすら書類だけに目を向ける彼の顎をぐいと掴んだ。

  そのまま自分の方へと強引に向けさせる。

 「人と話をする時は相手の方を見るもんだ。 そう教えられなかったか?」

  語気も荒くそう言う。

 「……私のことは放っておいてください」

  顎を掴まれ痛そうな顔をしながら、 なおも藤見はそう言い放った。

  その言葉に瀬名生の堪忍袋の緒が切れた。

 「どういうつもりだ。 あんたの最近の態度は目にあまるぞ。 いくら俺が気に食わないと

しても限度というものがあるだろう。 いいかげんにしてくれ」

 「………ですから放っておいてください。 あなたが私に近寄らなければ私もあなたも

不愉快な思いをしなくてすみます」

 「それで済むと思っているのか」

  あまりの言いぐさにかっとなった瀬名生の手に力が入る。

 「………仕事には私情を挟んでいるつもりはありません。 それ以外のことでは私の

自由と……っ」

  ぎりりと掴まれた顎に話しづらそうだった。

 「言ってくれるな。 ………そんなに俺が嫌いか?」

  思わず問いかける。

  藤見はその言葉に一瞬瀬名生に目を向けたが、 すぐにその目を伏せた。

  硬い表情のままはっきりと答える。

 「………嫌いです。 あなたのような人は大嫌いです」

  わかっていたが、 本人の口からはっきりと言われ、 何故か瀬名生は自分がショックを

受けている事に気付いた。

 「あなたのようないいかげんで無責任な人を誰が好きになると言うんです。 この病院で

あなたに会ったのは私の一番の不運です」

  黙りこくった瀬名生の様子に気付かず、 なおも藤見は言い続けた。

  何かに促がされるかのように言い続ける藤見に、 だんだん瀬名生の心が暗いもので

満たされていく。

 「………大嫌いです」

  そう言った藤見の口を、 突然自分の口で塞いだ。

 「……っ!」

  目を見開いてもがく藤見にかまわず、 そのまま舌で口内を蹂躙する。

 「………その大嫌いな男に抱かれて悦んだのは一体誰だ?」

  ようやく口を離すと、 瀬名生は皮肉気に口をゆがめた。

  目に暗い火が灯っている。

 「俺にしがみついてもっととねだっていたよな。 ………俺の下でいい声で鳴いたくせに。

腰振って悶えながら嬌声を上げたあんたはとても嫌がっているようには見えなかったが」

  さっと藤見の顔が羞恥に赤く染まる。

  その顔を横目に見ながら、 ホワイトボードに書かれた予定表を確かめる。

  都合のいい事に、 藤見は今晩から明日の午後まで休みだ。

 「久しぶりだ。 今晩、 俺の部屋に来い。 ………どれだけあんたが俺を嫌がっているか

見せてもらおうか」









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