夜の扉を開いて

 

13

 

 

 

    病院を出る足取りが重かった。

  先ほど帰りに立ち寄った病室で自分に向けられた笑顔が心に痛かった。

 ”まあ、 藤見先生”

  以前自分が執刀したその女性は、 今度もまた必ず治ると信じて疑わない様子だった。

  外科ではなく内科に入ったことに些かの不安はあったようだが、 薬と科学治療で大丈夫

なのだと疑ってもいなかった。

  藤見はニコニコと自分に話しかける伊藤加奈子という女性患者に、 何でもないという表情を

作るのがこんなに難しいことだとは思っても見なかった。

  今回の治療の難しさを知っているからこそ、 自分達を信じる目が辛かった。

  必ず治ると言いながら、 まっすぐに相手の目を見ることに躊躇しそうになる。

  どうしても気になって訪れた病室だったが、 会話を続けることが辛く、 藤見はまだ仕事が

あるからと言って早々に退出したのだ。

  病院の外に出ると疲れがどっと押し寄せてくる。

  昨日の休みは結局瀬名生のところから家に帰るのがやっとで、 家に着いた途端に体の

辛さに早々とベッドに入った。

  それでも完全に疲れや痛みが取れたとは言えない。

  今日こそはゆっくりと休まないと。

  ため息をつきながら、 駅へと向かおうとした。

  と、

 「藤見先生」

  踏み出そうとした足がその声に止まる。

  立ち止まりはしたが、 振り返る気にはなれない。

  じっとその場に立ち尽くしていると、 瀬名生の方が藤見の側に近寄ってきた。

 「今日はもう終わりか?」

 「……ええ」

  問いかける声に黙っていることもできず、 言葉少なに応える。

  今は瀬名生に会いたくなかったのに……

  昨日の自分の醜態が脳裏に甦る。

  自分でも信じられないくらいの嬌声を上げた。

  彼に突き上げられる度に頭の芯までしびれてしまいそうな快感を感じた。

  我慢できなかった。

  あまりの快感に彼にしがみつき、 最後には自分から腰を振っていた。

  瀬名生にもっととねだってさえいた。

  あんなことは初めてだった。

  思い出しても羞恥に死んでしまいたくなる。

  瀬名生と顔を合わせるのが怖くて、 彼のいない間に倒れそうになる体に鞭打って

やっと家に帰った。

  今日もいつ彼と顔を合わせてしまうのかと、 びくびくしながら一日過ごした。

  それなのに、 やっと帰ろうというときに……

  瀬名生の顔が見れなくて、 じっと俯く。

  「飯は食ったのか?」

  そんな藤見の心の葛藤を知ってか知らずか、 瀬名生が素知らぬ顔で尋ねてきた。

 「いえ……家で何か…」

 「俺のところに来い」

  思わずはっと顔を上げる。

  その怯えたような表情に、 瀬名生は苦笑いを浮かべた。

 「昨日の今日であんたをどうこうしようって気はない。 ただ飯を一緒にって思っただけだ」

  藤見はその言葉に眉をひそめた。

  ただ食事をするだけだという男の真意がわからない。

  自分と一緒に食事をすることにどんな意味があるのだろう。

  それに……

  藤見は瀬名生と出来る限り近づきたくなかった。

  週に1、 2度彼の部屋に連れていかれて体を重ねるだけでも、 充分藤見にとっては

心理的に負担になっている。

  まだ昔の傷を忘れたわけではない。

  心の中では彼に対する恨みが消えたわけでもない。

  これ以上彼に傷つけられることだけは避けたかった。

 「……申し訳ありませんが、 早く帰って休みたいので……」

  だから瀬名生の誘いをにべもなく断った。

  その口調の固さに瀬名生がすっと表情を変える。

  その目は苛立たしげに光っていた。

 「おい、 俺は断っていいとは言ってないぞ」

  ぐいっと藤見の腕を掴み寄せる。

 「ただ飯を食うだけだろうが。 どうせ一人じゃあろくなものを食わないんだろう、 そんな細い

体して。 医者は体力勝負なんだ、 さっさと来い。」

  そのまま自分の車へと引っ張っていく。

 「瀬名生先生……っ」

 「うるさいっ 俺に担がれたいか。 ここで醜態晒したくなけりゃ黙って来い」

  じろりと睨む瀬名生に藤見は返す言葉もなく、 結局昨日に続いてまた彼の部屋に

行くことになった。









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