夜の扉を開いて

 

12

 

 

 

   「……先生? 藤見先生?」

  自分の名を呼ばれてはっと我に返った。

  見ると看護婦の園部が不思議そうに自分を見ている。

  外来の診察が一段落して、 気を抜いてしまったようだった。

  昨日の疲れが重く残った身体では、 少し気を抜くとすぐにぼうっとしてしまう。

  藤見は気を引き締めると、 自分を見ている園部にぎこちなく謝った。

 「……すみません。 ちょっと考え事をしていたみたいです。」

 「先生、 お疲れなんじゃ……もしかして風邪、 ひかれました? なんだか

声がかすれてるみたい。」

  かすかにしゃがれた声を聞き逃さず、 園部は心配そうな顔をした。

  藤見は園部の言葉に内心ひやりとする。

  昨日、 いや一昨日の晩から散々嬌声をあげさせられた喉は、 その酷使に耐えきれず

昨日からずっとひりひりと痛んでいる。

 「……大丈夫です。 すぐに治りますから。」

 「気をつけてくださいね。 今年の風邪はしつこいんですから。 先生が風邪ひいてちゃ

冗談にもなりませんから。」

  まさか本当のことを言うわけにもいかず、 曖昧に返事を返すと、 園部は勝手に

風邪だと判断して気遣う声を出した。

 そのまま診察室を出て行こうとする彼女の手のカルテに目が止まる。

 「……園部さん、 そのカルテ……」

  見覚えのある名前に思わず声を出す。

 「ああ……これ、 今から内科に持っていこうと……」

  園部は手にしたカルテに目を落とし、 顔を曇らせる。

 「それって……」

 「そう言えば先生も手術に立ち会ったんですよね。 ……再発、 みたいです。

昨日、 病院で検査受けられて……」

 「そんな……」

  カルテにある名前は去年藤見も担当していた患者のものだった。

  胃癌だったその女性は、 まだ小さな子供のいる母親だった。

  病室で女性に引っ付いていた子供の姿を思い出す。

  手術が無事終わり、 退院していった時の女性と子供の笑顔が今も記憶に残る。

 「内科っていうと……」

  外科手術ではどうにもならないということか。

 「今回場所が悪いみたいで……科学治療でいくらしいです。」

  メスを入れられない場所。

  その言葉に藤見の心にやるせない感情が沸き起こってくる。

  医者である自分にもどうしようもないこと。

  それが悔しい。

 「良くなるといいんですけど……」

  園部の言葉が重くのしかかる。

  実質、 内科での治療は外科のように病巣をすぐに取り除くというわけにはいかず、

長期間の戦いになる。

  まして、 進行癌ともなると時間との勝負だ。

 ”先生、 ありがとうございました”

  そう笑った女性の顔が浮かぶ。

  園部の出ていった部屋の中で、 藤見は一人目を閉じた。







  瀬名生は廊下を歩く藤見の姿に目を止めた。

  昨日、 仕事からマンションに戻った時にはもうすでに藤見は帰った後だった。

  昨日の明け方まで抱き続け、 無理をさせたと思いながらも仕事のある瀬名生は

仕方なく病院に向かった。

  出掛けにはまだベッドに横たわり、 死んだように眠っていた藤見の姿が仕事中

ずっと頭の隅に残っていた。

  今日も大丈夫だろうかと思いながら出てきたのだが、 なかなか姿を見ることが

できなかった。

  一日ぶりに見る藤見は、 やはりどこか疲れたような顔をしていた。

 「瀬名生先生?」

  思わず近寄りそうになった瀬名生の足を、 一緒に歩いていた医者の声がひきとめる。

 「どうしました?」

 「いや……」

  これから新しい手術のカンファレンスがある。

  瀬名生は藤見のことを気にかけながらも、 仕方なく患者の待つ部屋に向かった。

 





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