楽園の瑕




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「サラーラ様っ!」

 ファビアスの手によって馬から抱き下ろされたサラーラを見て、悲鳴にも似た声を上げて、ノーザが駆け寄ってきた。

「サラーラ様! よくご無事で・・・・・・っ」

「ノーザ!」

 振り向くと同時に縋りつくように抱き締められ、サラーラは同じように温かい胸に縋りついた。

「ノーザ、ノーザ・・・」

「よくご無事でいらっしゃいました。 賊に連れ攫われたと知って私は・・・・・・」

 喉を詰まらせたように言葉が途中で途切れる。

 その温かい体が震えているのを感じ、サラーラの目にもみるみる涙が溢れる。

「ノーザ、ノーザ・・・僕、とっても怖かったんだ。でも、頑張ったんだよ。ファビアス様が助けに来てくださるって、思ったから

だから、頑張って逃げようとしたんだよ? 赤ちゃん、守らなきゃって」

「サラーラ様、 御子は、御子は大丈夫なのですか」

 ノーザはその言葉に慌ててサラーラの腹部を心配そうに見下ろした。

 賊に連れ去られどのような目にあったのかはノーザには想像もつかない。 しかもしれだけでなく、ファビアスによって

助け出された後も、この離宮に戻ってくるまで長い間馬に揺られなければならなかったのだ。 それがお腹の子に

悪い影響を与えてしまったのではないだろうか。

 大事なファビアスとサラーラの子にもしものことがあっては、と、不安が高まる。

「サラーラ様、医師の者がすぐに参ります。早くお部屋へ・・・・・・お体を休めなければ」

「うん、でも・・・・・・」

 体が疲れ切っているのは、サラーラにもわかっていた。 体がくたくたで、立っているのも辛いほどだったから。

 しかしサラーラはすぐに部屋に行くのをためらった。 

 一人になりたくないのだ。

 一人になると、あの恐怖が蘇ってくる。 ギルス達が襲ってきたあの時の恐怖が。

「サラーラ様?」

「サラーラ、どうした?」

 ぎゅっとノーザの服を掴んで離そうとしないサラーラに、ノーザも側にいたファビアスも不審そうな顔をした。

「サラーラ? 気分が悪いのか? どうした」

「まさか、お腹の御子に何か・・・・・・だ、誰かっ 早く医師を・・・っ!」

 お腹の子供に何か異常でも、と、ノーザが顔色を変える。 

「何っ!?  腹の子に何かあったというのかっ! 早く医師を呼べっ!!」

 それを聞いたファビアスも、血相を変えてサラーラを抱き上げた。

「きゃっ!」

 驚いたのはサラーラの方だった。

 いきなり抱き上げられ、慌ててその首にしがみつく。

「ファ、ファビアス様・・・っ」

「サラーラ、少しの辛抱だ。すぐに医師が来る。 大丈夫だからな」

「ファビアス様っ」

「気分が悪いのか。 すまない、すぐに部屋に連れて行くべきだったな」

 サラーラが疲れ切っているのはわかりきっていることだったのに、もたもたとしていた己を悔やむ。

「だから・・・ファビアス様っ」

 心配のあまり、サラーラが話しかけても、全く耳に入らない様子だった。

「部屋の用意はできているんだろうなっ! 部屋は温まっているのかっ」

「ファビアス様ってばっ!」

 全く耳を貸そうとしないファビアスに、サラーラはついに癇癪を起こしたように両手を振り上げて、ポカポカと

ファビアスの胸を叩き出した。

「サ、サラーラ?」

 その様子に、やっとファビアスはサラーラの訴えに気づく。

「どうした、サラーラ」

「ファビアス様の馬鹿っ 僕の言うこと、全然聞いてくれないんだからっ」

「サ、サラーラ?」

 むうっと膨れた顔をするサラーラに、ファビアスは先程とは違った意味でおたおたとし出す。

 馬鹿と言われたのだ。 むうっと膨れた顔が、サラーラの不機嫌さをあらわしている。

「サラーラ、どうした。 腹が痛い・・・・・・のではないのか・・・・・・?」

 またお腹の子供を気にしようとして、ますますサラーラが不機嫌そうに眉を寄せるのを見た。

「サラーラ?」

「お腹の赤ちゃんはなんともないのっ 全然痛くないし、気分も悪くないっ 医師なんかいらないってば」

「き、気分が悪いのではないのか・・・?」

 ぶんぶんと首を振るサラーラに、今度はファビアスが眉を寄せる。

「ではどうしたというのだ。 腹の子が大丈夫だというのなら・・・・・・他にどこか悪いところでも?」

 そういえば、とサラーラの全身に目を走らせる。

 手や足のあちらこちらに小さな擦り傷や切り傷がある。 森の中で、ギルス達から逃げようとしたときに出来た傷だ。

「やはり医師は必要だ。 その傷の手当てをしなければ・・・・・・ノーザっ 早く医師をっ!」

「だから、僕は何ともないってっ!!」

 ついにサラーラが癇癪を起こしたように大きな声を出した。

 先程よりも激しく、ファビアスの腕の中でジタバタと暴れ出す。

「サ、サラーラ・・・っ?」

 サラーラのあまりの暴れように、ファビアスはどうしたらいいのかわからず、ただおたおたとサラーラの機嫌を

とろうとした。

「サラーラ、何ともないということではいだろう。 傷の手当てはしなければならないし、何よりも今はゆっくりと

休まなければ。腹の子のためにも」

「だって・・・・・・っ」

 ポカポカとまた胸を叩きながら、サラーラは小さく怒鳴った。

「だって、あの部屋は嫌だっ また知らない誰か入ってきたら・・・・・・あの部屋はいやっ」

 じっと涙の浮かんだ目でファビアスを睨む。

「また誰かが僕に怖いことをするかもしれない。そんなのやだっ 怖いのはもういやっ!」

 そう言って、今度はファビアスの胸にぎゅっとしがみつく。

 その体がかすかに震えているのを感じ、ファビアスは今更ながら、サラーラがどんなに恐ろしい目に会ったのか、

思い知った。

 今まで真綿に包まれるように城の中で守られて暮らしてきたサラーラにとって、今回のことがどれほど恐ろしい

ことだったか。 それは戦に明け暮れ、血なまぐさいことに慣れてしまった自分には到底想像も出来ないことだろう。

「サラーラ・・・サラーラ、俺が悪かった。 そうだな、あの部屋はだめだな。なら別の部屋を用意しよう。 それなら

いいだろう?」

 腕の中の体をゆっくりと揺すり、宥めるようになるべく優しい声音で言う。

「もうお前をあのような目にはあわせない。 今度こそ俺が必ず守る。もう恐ろしいことはなしだ。 お前を害する者は

この宮に近づくことも出来ぬように兵を増やす。お前の部屋の回りは特に厳重に守らせる。どうだ?」

「・・・・・・ファビアス様も一緒? 一緒に部屋に来てくれる?」

 ファビアスの言葉に、少ししてサラーラが顔を上げて訴えるように言った。その目にはいまだ不安の色があった。

「もちろんだ。 お前が嫌といっても側にいるぞ」

「・・・・・・・・・じゃあ、行く」

 また胸に顔を埋めながら、サラーラはしぶしぶ頷いた。

 そして、ファビアスがその体をそっと抱き上げると、首に両腕を回してしがみ付いてきた。

「陛下、お部屋の用意が・・・・・・」

  新しく部屋の用意が整ったというノーザの声に、ファビアスは軽く頷くと、サラーラを腕に抱いたまま、宮の中へと

歩き出した。
 
 サラーラはなおもファビアスの首にしっかりとしがみつき、離れようとしなかった。

 男の腕に抱き締められて、その慣れ親しんだ匂いに包まれて、ようやく気分が落ち着いてきたのを感じる。

 ここならば怖くない。 この腕の中に入れば安心だと、訳もなく信じられた。

 ここが、自分の場所なのだと。

 ファビアスの肩に顔を埋め、その匂いを思い切り吸い込む。

 ・・・・・・ファビアス様の匂いだ・・・・・・。

 顔を埋めたままの、その口元にかすかに笑みが浮かんだ。

 この離宮に戻ってくるまでも、ずっと彼の腕の中にいた。 でもここに帰ってくるまでは安心できなかった。

 いくらファビアスに大丈夫だと言われても、抱き締められても、サラーラの胸には不安があった。

 いつまたこの腕がなくなってしまうかと、そればかり心配だった。

 サラーラにとって世界は城の中、そして離宮の中だけだった。ほとんど外の世界を知らないサラーラにとって

外は恐ろしいことばかりのように思える。

 ファビアスと初めて外に馬乗りに出たときのことをふと思い出した。

 あの時はこんな不安などなかったように思う。

 初めて外の世界を目にし、そして肌で感じて、その広さに驚き、そして怖くなったことを思い出す。

 でも、不安なんて一瞬で消えてしまった。 だって、ファビアスが側で抱いていてくれたから・・・・・・。

 そう思い、サラーラは首に回した手に力を込めた。

 そうだ。最初から自分は知っていたのだ。 この腕が自分をずっと守っていてくれたことを。

 この腕の中に入れば、何も怖いことなどないということを。

 あの、初めて会った日から、彼が扉を開けて自分の前に現れたときから、自分はファビアスを選んでいたのだ。

 彼が差し出した手を、自分は無意識に握っていた。 あの狭い世界から自分を連れ出してくれる手を。

 そして、いつの間にか信じていた。 生まれたときから側にいた乳母よりも、誰よりもファビアスを。

 そう、信じていればいいのだ。 あの、知らない女の人の言うことになど、耳を貸さなければ良かったのだ。

 乳母の言葉だって、本当じゃなかったのに。ファビアスは自分の敵なんかじゃなかったのに。

 どうして、あんな女の人の言葉を信じてしまったのだろう。

 サラーラは、今更ながら、ファビアスの元を離れたことを悔やんだ。彼に怯えて近寄ることができなかった自分を

思い出す。

 どうして彼が怖いなんて思ってしまったのか。 

 そして、このお腹の子のことも・・・・・・。

 サラーラは自分のお腹に目を落とした。

 そして、柔らかく微笑む。

 ・・・・・・この子が自分を励ましてくれた。 あの、恐ろしい森の中で、追っ手から逃げながら不安に潰されそうな

自分を、励ましてくれたのだ。

「・・・・・・ファビアス様・・・」

「ん? 何だ?」

「あのね・・・」

 自分を見下ろす目に微笑み返しながら、サラーラは口を開いた。

 彼に伝えたかった。お腹の子供が初めて動いたときのことを。

 それを聞いたファビアスは、どんな顔をするだろう。

 思いながら、サラーラは言葉を続けた。続けようとした・・・・・・。

「あのね、この子がね・・・・・・・・・・・・っ!」

 しかし、それ以上言葉を続けることが出来なかった。

 その代わりに口から迸ったのは・・・・・・。

 

「 っっっあああ!!!!!」


 
 突然お腹を襲った激痛に、サラーラは苦悶の声を上げていた。



























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