楽園の瑕




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 柔らかく微笑んでいた顔がみるみる苦悶に歪んでいく。
 
「サラーラっ! どうしたんだっ!」

「い、痛い・・・痛い・・・お腹・・・っ!」

 サラーラの悲鳴のような声に、ファビアスははっと彼のお腹を見下ろした。

 そして、服の裾から見える白い足に流れるものを見つけ、顔を強張らせた。

「っっっ!  い、医師を・・・・・・医師を呼べっ!!!」

 サラーラの足を伝う血。それが意味するものは・・・・・・。

 馬鹿な・・・・・・っ!

 ファビアスは頭の中が真っ白になるのを感じた。

「サラーラ・・・サラーラ・・・っ!」

「・・・お腹・・・あ・・・赤ちゃん・・・赤ちゃんが・・・っ」

 サラーラの苦悶の声はさらに大きくなっていく。 

 その顔がますます苦痛に歪んでいくのを見ながらファビアスはどうすることも出来ず、ただその体を抱き締める

しかなかった。

「医師は・・・医師はまだかっ!」

 ファビアスの絶叫が廊下に響く。

「痛い・・・ファビアス様・・・赤ちゃん・・・っ」

 周りでノーザが悲鳴を上げていることも、他の侍女や兵達が慌てて廊下を走り回っていることも、今のサラーラには

わからない。

 わかるのは、お腹を襲う激しい痛み・・・・・・それは・・・・・・。

 サラーラの胸を恐怖が襲う。

「ファビアス様・・・赤ちゃん、助けて・・・・・・!」

 いやだ・・・いやだ・・・っ! 

 サラーラは激しい苦痛に襲われながら、ファビアスの服にしがみついた。

「ファビアス様・・・助けて・・・赤・・・ちゃん・・・助けて・・・・・・っ」

「サラーラ・・・っ!」

 サラーラのj必死の訴えに、ファビアスはただただその体を抱き締めるしかない。 

 自分にはどうすることも出来ないのだ。

「医師は・・・早くしろっ!!」

 ようやく部屋に着き、ファビアスはサラーラを寝台に急いで、しかしそっと優しく横たわらせた。

「医師はまだかっ!」

 ファビアスの吼えるような声が部屋に響き渡る。

「サラーラ、しっかりしろっ すぐに楽にしてやるからな」

「いや・・・赤ちゃん・・・死んじゃうの・・・?」

 サラーラは脂汗をかき、苦痛に顔を歪めながらも、必死にファビアスの服に縋りついた。

 この痛みがお腹の子供にとって良くないことが起きていることを示していることを察していたのだ。

「ファビアス様・・・いやだ・・・赤ちゃん・・・いやだ・・・」

 お腹の子供が死んでしまうかもしれない。

 サラーラの胸に恐怖が込み上げてくる。 

「お願い・・・助けて・・・赤ちゃん、助けて・・・・・・」

 痛くて苦しくてぽろぽろと涙を流しながら、それでもサラーラは必死に訴えた。

「ああ、ああ・・・わかったから・・・・・・サラーラ、大丈夫だ。子供は絶対に死なせない。死なせるものか」

 バタバタと扉から慌しく駆け込んでくる足音が聞こえた。

 ようやく医師達が到着したのだ。

「遅いっ! 何をやっていたっ!」

「も、申し訳ありません・・・っ」

 凄まじい目で睨まれ、医師達が顔を引きつらせる。 ファビアスの鬼気迫る表情に足が竦むのを何とか堪え、

彼らは寝台の側へと近寄った。

「サラーラが苦しんでいる。早く何とかしろっ 万一サラーラに何かあったらお前達もただで済むと思うなよ。

その首を残らず刎ねてやる。お前達だけでなく、家族も親類縁者全てだっ!」

 ファビアスの恐ろしい言葉に、医師達が顔色をなくす。

「お、お待ちください。ただいま・・・・・・」

 震える手で、それでも彼らは自分の役目を果たそうとした。 その彼らの表情が、サラーラの下肢を伝う血を見て

険しいものに変わる。

「妃殿下、失礼いたします・・・・・・」

 腹部や下肢を調べ始める医師達に、サラーラは不安そうな顔をしながらファビアスに手を伸ばした。

「ファビアス様・・・ファビアス様・・・・・・」

「大丈夫だ・・・すぐによくなる・・・・・・・」

 そんなサラーラを安心させようと、ファビアスは差し伸べられた手を握り締め、優しく口付けを落とした。

「妃殿下、これを・・・・・・」

 医師の一人が、小さな杯を差し出した。

「薬湯です。痛みが和らぎます。どうぞお飲みください」

 差し出された杯を素直に口にする。
 
 苦かった。 いつものサラーラなら顔を顰めて飲むことを拒否するだろう。 

しかし今は大人しく医師の言うとおりにしている。 痛みに意識が向き、そんな苦味を感じる余裕すらないのだ。 

 こくんと全て飲んだサラーラを見て、医師はまた別の薬を調合し始めた。 他の医師達はなおもサラーラの体の

処置に没頭しているようだった。

 ファビアスはサラーラが薬を飲んでいる間も、その後もずっと側でその手を握り締めていた。

「ファビアス様・・・・・・」

 しばらくして薬が効いてきたのか、下肢の痛みが少し和らいだように思えた。 しかしその痺れたような感覚が

またサラーラに新たな不安を呼び起こさせた。

「ファビアス様・・・赤ちゃん・・・・・・」

 縋るような目で、ファビアスに訴える。

 それにファビアスは安心させるような笑みを浮かべて見せた。 今、サラーラを不安にさせるべきではない。

「俺とお前の子供だ。こんなことで負けるはずがない。そうだろう?」

「うん・・・・・・」

「ちょっと俺達を驚かせてやろうとしているだけだ。困った奴だな」

「うん・・・」

「今からこんなに俺達を困らせるんだ。生まれてきたらさぞかし手を焼くことになるな」

「・・・うん・・・」

「だが、それくらい元気な方がいい。 そうだ、きっと元気に生まれてくる」

「・・・・・・う、ん・・・・・・」

 サラーラの返事がだんだんと間延びしたものになっていく。

「サラーラ・・・サラーラ?」

「・・・・・・・・・」

 呼びかけるが、返事がない。その赤い瞳はいつの間にか閉ざされてしまっていた。

「サラーラっ!」

 蒼白な顔でぐったりと目を閉じたサラーラに、ファビアスの表情が変わる。

「サラーラっ!」

「陛下、妃殿下はお眠りになっているだけです。先程のお薬が・・・・・・」

 ざあっと青ざめたファビアスに、サラーラに薬を飲ませた医師が恐る恐る声をかける。

 その彼を、ファビアスはギッと睨みつけた。

「どうなんだっ! サラーラは大丈夫なんだろうなっ 腹の子は・・・・・・子も無事か?」

 問う声が、不覚にも震えているのをファビアスは自覚していた。

 それほど医師の答えが怖かった。 この自分が。どのような戦でも恐れを抱いたことのない自分が、たかが

一人の医師の答えにこんな・・・・・・。

 そんな考えが頭の片隅にふと過ぎったが、しかしそれよりも何よりも、今はサラーラの身が心配だった。

「どうなんだっ!」

 青ざめ、力を失ったようにぐったりと眠るサラーラの姿が、ファビアスの心を掻き乱す。

 もしもサラーラの身に何かあれば・・・・・・。

 そのようなこと、考えたくもなかった。

「早く言えっ!」

 その剣幕に怖れをなしたように、医師は怯えた顔でおどおどと口を開いた。





 

































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