楽園の瑕




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「ふざけたまねを。 逃げるなどと……っ」

 ギラギラとした目で睨みながら、ギルスは吐き捨てるように罵った。

「ん…んん……!」

 見つかってしまった……!

 絶望に目が真っ暗になりそうだった。

 見つかってしまった。 もう逃げられない……ファビアスに会えない………そして、何よりも

お腹の子供が……!

 恐怖に駆られ、サラーラはいやいやと首を振りながら必死に男の手から逃れようともがき

続けた。

「大人しくしろ、 そのように暴れても無駄だ」

 そんなサラーラをあざ笑うかのように、ギルスはますます拘束の手を強めた。

「ん…ん…っ!」

 口元を大きな手で覆われ息が苦しい。

 声が出せない。 助けを求めることさえできない。 すぐ近くにあんなに多くの光が見えると

いうのに………あと少しで男達から逃れられたかもしれないというのに………っ

 嫌だ………嫌だ嫌だ嫌だ………っ!

 男への嫌悪感と恐怖に駆られ、サラーラはなおも必死にもがいた。 もがいてもがいて、

何とかその拘束を解こうとした。

「……っつ!」

 ギルスの口から息を呑む音がした。 とともにサラーラを拘束していた腕の力が、ほんの

一瞬緩んだ。

 その期を逃さず、サラーラは男の手を渾身の力を込めて振り解いた。

「……っこの……っ」

 ひどく噛まれた手を押さえながら、ギルスが罵声を上げた。

 そして、もう一度サラーラを捕えようと怒りに満ちた顔で手を伸ばしてきた。

「この淫売が……っ!」

 もはやギルスの態度には、主君に対する敬意などどこにも見られなかった。

 そこにあるのは、軽蔑と怒り、そして己の獲物に対する欲望のみだった。

「あ………」

 異様な光を放つ男の目に、サラーラの表情がさらに怯えの色を深める。

 じりじりと近づいてくる男から少しでも逃げようとするが、恐怖に足が竦み思うように動かない。

「いや……来ないで……来ないで……」

「まったく、タラナート王に抱かれ心まで腐ってしまったか。 我らから逃げて奴の元へ行こう

とでも? どこまで我らを裏切るのだ」

 吐き捨てるように言われ、サラーラは首を横に振っていた。

 違う。 そんなのじゃない。 裏切るなんて……僕は……僕は………。

「………う…らぎってなんか、ない………僕は……マナリスなんて……知らない……」

 気づけば、サラーラはそう呟いていた。

「………なんだと……?」

 その言葉を耳にしたギルスの表情が変わる。

「知らないだと……? まさかマナリスを……自分の母国を……捨てるつもりかっ」

「違う……知らない……母国なんて……そんな………」

 捨てるなど、そんなつもりで言ったわけではない。

 ただ、本当に知らないのだ。

 サラーラにとってマナリスでの思い出とは、17年間過ごしたあの閉ざされた部屋のみ。

それがあの頃の自分の世界の全てだった。 それ以外何も知らなかった。

 マナリスという国も母国という言葉の意味も、サラーラにはわからない。

 ただ、死んだ乳母が裏切るなと言うからそうなのだと、裏切ってはいけないのだと、そう

思った。 信じた。 その意味もわからず………。

 しかし乳母の言葉は間違っていた。

 タラナートの王は敵。 そう言っていた乳母の言葉は間違いだった。

 だって、ファビアスはあんなに優しい。 あんなに自分を大切にしてくれる。 そして、自分を

ずっとずっと守ってくれていた。 

 ファビアスは敵なんかじゃない。

 なら………目の前にいるこの男は?

 サラーラはギルスをじっと見つめた。 王子、と敬意を表す言葉を使いながらも、蔑みの目を

向けてくるこの男は、果たして味方なのだろうか。 同じマナリスの民というだけで?

「……………違う……」

 違う。 彼は……そして自分は………。

 サラーラは首を振った。

「違う………マナリスなんて、僕の国じゃない………」

「……っ!」

 ギルスが大きく息を呑んだ。














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