楽園の瑕




89












 どれくらい歩いただろうか。

 最初は恐怖に追い立てられ急ぎ足だったサラーラの歩みが、だんだんと遅くなっていった。

 もともとあまり外に出ることがなく、しかも妊娠してからは体調が思わしくなかったせいもあり、

城や離宮の中でもほとんど動くことがなかったサラーラに、道らしい道すらない森の中を歩く

体力などあろうはずがない。

 はあはあと口から苦しげな息が漏れる。 足が重かった。 いや、足だけでなく体中が重かった。

 疲れきった体が悲鳴をあげているようだった。
 
 少しでも気を抜くとがくがくとくず折れそうになる足で、それでも少しずつ少しずつ歩を進めた。

 が、

「っ 痛…っ!」

 小枝が顔にあたった拍子にピリッとした痛みが頬を走り、サラーラはその場に立ち止まった。

 眉を顰めながら手で頬を撫でると、ぬるりとした感触がした。見ると指に赤い血がついていた。

 枝で頬を切ったのだ。

 頬だけではない。 足にも腕にも、木の枝に引っ掛けたり石に躓いてできた小さな傷があちら

こちらにできている。

 サラーラは手についた血をじっと見ていたが、その顔がふいにくしゃりと歪んだ。

 今まで逃げることに夢中で気づかなかった傷がじんじんと痛みだした。 そしてそれとともに

恐怖と心細さが心の中に押し寄せてくる。

 もう、だめだった。

 その場にくずれるように座り込む。

 座ってしまうと、どっと疲れが押し寄せ、立ち上がる気力さえなくなってしまう。 

 逃げなければと思うのに、どうしても体が動かない。

 逃げなきゃ……彼らに捕まってしまったらお腹のこの子は……。

 しかし、疲れきった足は痺れたように動かなかった。

 お腹を守るように両手で抱えながら、サラーラはその場にうずくまってしまった。

「……っ ファビアス様……っ!」

 来て……助けて………っ

 こんなところに一人でいるなんて嫌だった。 こんな真っ暗な右も左もわからない場所にたった

一人なんて……。

「ファビアス様……ファビアス様………っ」

 会いたかった。 ずっと自分の側にいた、あの人に。

 会って、抱きしめて欲しかった。 もう大丈夫だと、そう言って欲しかった。

 サラーラはようやく気づいた。

 ファビアスはずっと自分を守っていてくれたのだ、と。

 あの大きな温かい腕で、知らない危険や恐怖から自分を守っていてくれたのだと。

 そして、自分がどれほど彼に心を許していたのかを。

 やっと、わかった。

 ノーザが言っていた「特別」という意味。

 それはこんなにも胸が苦しくなるほど、彼に会いたいという気持ち。

 ノーザでもリカルドでも他の誰でもない。 ファビアスだけが………こんなにも恋しい。

「ファビアス様……会いたい……」

 知らず、そう呟いていた。

 ぽとり、と、涙が頬を伝って膝に零れ落ちた。

「あ………」

 一度溢れ出した涙は止まることを知らず、次から次へと頬を伝い落ちていく。

「ファ…ビアス様……ファビアス様………」

 会いたくて会いたくて……胸が苦しくなるほど彼に会いたくてたまらなかった。

「ファビアス様……お願い………」

 心の中で一心に祈る。

 お願い………来て………僕を見つけて………っ



 と、両手で守るように抱えていたお腹が動くのを感じた。

 その動きに、サラーラは泣きながらかすかに微笑んだ。

「ああ……そうだね」

 僕だけじゃない。 この子も待ってる………ファビアスを……父様を……。

 そしてサラーラの心の中に、ふと、ある確信が芽生えた。

 きっとファビアスは自分を探している。 離宮からいなくなった自分に気づいて、今頃探して

くれている。 自分がいるこの森に、来てくれる………きっと。

「ファビアス様……守って……この子を……」

 お願い、どうか早く………。

 サラーラは心の中でひたすら祈り続けた。














戻る