楽園の瑕




68








 ファビアスは目の前の光景に目を奪われた。

 サラーラが赤ん坊を抱いている……。

 その姿は、心に思い描いていた光景そのままで……。

 ファビアスの姿に、ノーザが慌てて礼を取る。

 しかしサラーラは赤ん坊に気を取られているのか、彼が部屋に入ってきたことに気づいた

様子はなかった。

 ひたすら赤ん坊を見つめている。

 優しく赤ん坊の髪を撫でるその瞳が柔らかな光を放っている。

 腕の中の存在が愛しくて仕方がないといった様子だった。

 その姿にらしくなく、胸の中が熱くなるのを感じた。

「………サラーラ……」

 知らず震える声で愛しい名を呼ぶ。

 その声にやっと気づいたのか、サラーラがふと顔を上げた。

 ファビアスの体がさっと緊張に強張る。

 サラーラの、彼の目が怖かった。

 彼が自分を見る目が……その色が以前のように恐怖に彩られているのではないか、と、

あの自分を厭って錯乱したように叫ぶ彼の声が耳によみがえる。

 本当はまだこちらに来るつもりではなかった。

 ノーザから毎日送られてくる報告で、サラーラの心がだんだんと落ち着きを取り戻している

ことはわかっていた。

 しかし自分の姿を見たサラーラがまた錯乱してしまうのでは、と、それが怖かった。

 医師達の報告を待とう、そう何度も思った。

 しかし、これ以上はどうにも我慢できなかったのだ。

 サラーラのいない城で、彼がそばにいないことにこれ以上耐えられなかった。 

 一目、顔を見るだけ、その姿を見るだけ……。

 そう思いながら、この離宮に馬を走らせたのだ。

 サラーラの前に姿を現すつもりはなかった。

 しかし、部屋の前に来たときに中から聞こえてきた明るい笑い声に、とっさに扉を開いていた。

 そして………。

 今、サラーラの目が自分に注がれている。

 彼はどのような反応を………。

 ファビアスが緊張に身を固くした時、サラーラの思わぬ声が聞こえた。

「ファビアス様!」

 明るい声が自分の名を呼ぶ。

 見ると、サラーラが喜色満面の顔で自分を見ていた。

「…サラー……ラ…」

 ファビアスの見る前で、サラーラが赤ん坊を抱いたままさっと立ち上がり、自分の方へと足早に

近寄ってくる。

 その足取りは軽やかなものだった。

 そして呆然と立ちすくむ彼の胸の中に、ドン、と飛び込んできた。

「ファビアス様、いつこちらに?!」

 嬉しそうな顔が自分を見上げている。

 ファビアスは自分の目が信じられなかった。

 サラーラが自分に笑いかけている……こんなに嬉しそうに……。

「…サラーラ……」

 ファビアスの声に、サラーラが何だと首を傾げる。

 その目にはあの、暗く恐怖に満ちた色はどこにも見当たらなかった。

「サラーラ……っ!」

 ファビアスはたまらずサラーラはその腕に抱きしめていた。

 たとえようもない愛しさが胸にこみ上げる。

 こんなにもこの存在に餓えていたことに気づく。

 離せない………!

 今更ながら、ファビアスはサラーラを、この愛しい存在を失うことができない自分を思い知った。




「ファビアス様……だめ、キリが……!」

 ファビアスに強く抱かれたサラーラが慌てたような声を出した。

「え?」

「キリがつぶれちゃう……!」

 自分を強く抱く腕から守るように赤ん坊を抱くサラーラに、ファビアスは彼が赤ん坊を抱いたまま

だったことに気づいた。

「あ…あ、すまない」

 とっさに謝り、腕の力を緩める。

 しかしサラーラをその腕から離すことはできなかった。

 やっと、この腕の中に取り戻したのだ。

 この腕が、体中がサラーラを求めていた。

「サラーラ様、キリは私が……」

 その様子を嬉しそうに見ていたノーザがすかさず赤ん坊を引き取ろうと手を差し出した。

「うん」

 さすがにサラーラも素直に赤ん坊を手渡す。

 サラーラ自身、ファビアスに会えたことが嬉しくてたまらなかったのだ。

 ファビアスは自分の敵ではない、そうノーザが言った時、サラーラは自分の中にあった冷たい

塊が溶けていくのを感じた。

 ファビアスを受け入れていいのだ、そう思ったサラーラの心が軽く、明るくなった。

 そして、彼にとても会いたくなったのだ。

 会いたくて、会いたくてたまらなかった。

 その腕の中に思い切り抱きしめて欲しい、そう思った。

 そのファビアスが今自分の目の前にいる。

「ファビアス様……!」

 サラーラは自由になった手で、もう一度彼に抱きついた。








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