楽園の瑕

 

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   「サラーラ様、 もう少しお召しあがりくださいませ」

  ノーザは食卓に残った料理を見て眉をひそめた。

  減った量を見る方があきらかに早い。というか、ほとんど減っていないのだ。

 「でももうお腹いっぱい」

  しかしサラーラはもういらないと首を振った。

 「いけません。 そのようなことではお腹の御子様が元気に育ちません。 さあ、 もう一口だけでも………」

  差し出す皿に、 しかしサラーラは表情を強張らせた。

 「………知らない。 僕には子供なんていない」

 「またそのようなことを………確かにサラーラ様のお腹には御子様が宿っておいでです。サラーラ様も

それはとっくにご承知のはず」

 「知らない! 僕は子供なんて知らない!」

  激しく首を振ってサラーラは椅子から立ち上がった。

 「サラーラ様!」

 「子供なんて………そんな恐ろしいもの、 僕は知らない!」

  そう叫ぶとサラーラは部屋から駆け出した。

 「サラーラ様! いけません! 走っては………っ!」

  ノーザが悲鳴のようなを声をあげる。

  しかしサラーラはそれを無視して廊下を走ると驚く衛兵を尻目に庭へと出ていった。

  途端に広がる色とりどりの花にサラーラの足が止まる。

  ワンワン!

  庭で遊んでいたらしいクルシュが主の姿を見つけて嬉しそうに走り寄ってきた。

 「クルシュ……」

  ぎゅっと首を抱きしめるとぱたぱたと大きな尻尾を振る。

 サラーラは犬のふわふわとした毛に顔を埋めながら、 胸のうちに広がる不安と必死に戦っていた。

 「クルシュ………ファビアス様、 どうしてると思う?」

  心の中から離れない面影を口にする。

  ファビアスという言葉にクルシュが辺りを見まわした。

  いつも遊んでくれた人間が側にきたのかと探しているのがわかる。

 「………違うよ。 ファビアス様はここにはいないよ」

  そう、 彼はここから遠く離れた城にいる。

  寂しかった。

  いつも当たり前のように側にいた彼がいない。

  それがこんなにも寂しく、 心許なく感じるなんて。

  しかしどんなに寂しくても今彼に会うのは怖かった。

  どのような顔をすればいいというのだろう。

  彼が自分にとってどのような存在なのかわからないのだ。

  怖い、と思う。 あの悪夢は今尚サラーラを縛り付けていた。 乳母の血に塗れた姿がファビアスを敵と

訴えている。 その声が……生前から自分に訴え続けていた声が耳から離れない。

  そしてモルディアの声。 敵国の王に身を売った汚らわしい恥知らず。 そうじゃないと言いきれない自分が

怖かった。 だって確かに自分は父や母を殺したファビアスに抱かれて喜んでいたのだから。

  それが悪いことだなんて知らなかった。

  ほとんど顔も覚えていない父母よりもファビアスの方がよっぽど自分の近くに感じられたのだ。

  初めて自分をしっかりと抱きしめてくれた、 人肌の温もりを知った相手なのだ。

  それがどうして悪いことだと思うだろう。

  サラーラには何が正しいことなのか、 判らなかった。

  ただ、 幼い頃からずっと信頼していた乳母の言葉だけは無視できない。 その彼女が彼は敵と言ったのだ。

  ならばファビアスは本当に敵なのだろう。

 「でも………どうしてファビアス様が敵じゃないといけないの?」

  父母を殺した、 祖国を殺した憎い敵。 そう思おうとしても、 サラーラには憎むという感覚がわからない。

  同時に父母という言葉がどういう意味を持つのか、 祖国というのがどういうものなのか、 実感できないのだ。

  サラーラにとって、 ファビアスに会うまでの生活はそれほどに閉ざされたものだったのだ。

 「僕はファビアス様に会ってから、 とっても楽しかったのに………」

  何もかもが初めて知ることばかりだった。 それは苦しいこともあった。 初めて彼に抱かれたとき、 自分の体の

秘密を知ったときはショックだった。 怖かった。 でもそれ以上に彼と過ごす日々は楽しかったのだ。

  でも…………

 「怖い………」

  サラーラは自分の腹に手を当てた。

  ここに彼と自分の子供がいる。 そう考えると恐怖で足が竦む。

  子供って………何?

  夢の中で出てきた影………自分の腹を切り裂いて、 血塗れで現われた恐ろしい影を思い出す。

  あれが本当に自分の中から出てくるのか?

  モルディアの言った自分が穢がれた証がいる。 なのにどうしてファビアス達はそれを喜ぶのだろうか。

  サラーラは判らなかった。

  どうしていいのかわからず、 ただクルシュにしがみつき、 顔を埋めていた。









                      
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