楽園の瑕

 

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   「しばらく妃殿下には静かな場所で静養になられることをお勧めいたします」

  医師の言葉にファビアスは苦悩に満ちた目を向けた。

 「静養……それは俺の側からあれを離せと言うことか?」

  低く地を這うような声が問う。

 「………妃殿下のお体を考えると今は何よりもお心の安定が必要かと………御子のためにも」

 「子供……」

  いらない、と叫んだサラーラの声が耳によみがえる。

  瞬間胸に走った痛みにファビアスはまた顔を歪めた。

 「………子供は諦めん……サラーラもだ。 必ず無事に産ませろ。 あれの健康も損なうな。 もし万が一に

サラーラの身に何かあってみろ。 お前達皆即刻首を刎ねてやる。 お前達だけではない、 お前達の家族、

親類縁者全てだ。 いいか、 必ずサラーラを守れ」

 「では………」

  医師達はファビアスの言葉に青ざめながらも震える声で彼の真意を確かめた。

 「妃殿下の静養地へのご出立をお認めになると?」

 「長くは認めん。 サラーラが落ち着き次第すぐに連れ戻す。 お前達全力で治療にあたれ。 一刻も早く

サラーラを元に戻せ」

  あの自分を見つめる目が以前のように笑みを浮かべたものに戻るように………

  恐怖と困惑が混じった瞳の色はファビアスにとって耐えがたいものだった。

  あんな目で見られることには我慢ならなかった。

  あれは私のものだ………!

  自分の腕の中で、 自分だけが触れていい大切な存在だった。

  その存在に己の存在を拒絶される、 それがどれだけ苦しいことか、 ファビアスは生まれて初めて知った。

  サラーラを守りたかった。 だがそのためには自分の側から離さなければならない。

 「いつだ……いつまで……」

  医師達の去った部屋の中でファビアスはつぶやいた。

  これからしばらく、 いつまでとわからない時間をサラーラのいない城で過ごさなければならない。

  背筋が凍るような空虚感が体を襲う。

 「サラーラ……!」

  ファビアスは顔を手で覆いながらうめくような声で愛しい名を呼んだ。















 「サラーラ様、 ほら、 湖が見えてまいりました」

  ノーザが馬車の窓から外を指差して明るい声を出した。

  サラーラはその声にぼんやりと視線を向けた。

  窓の外に日の光に反射してキラキラ光る水面が見えた。

 「湖……本当だ。 大きいね……」

  道中ずっともの思いにふけっているかのように無口だったサラーラがぽつりと言った。

  視線は湖に釘付けだった。

  森の中の木陰の景色に慣れた目には目の前いっぱい明るく輝く湖は眩しく感じた。

  対岸がぼやけて見えるほど大きい。 一周すれば馬車でさえどれほどかかるか。

  じっと魅せられたように湖に見入るサラーラをノーザが微笑みながら見つめる。

  ずっと沈みこんでいたサラーラが久しぶりに何かに興味を示したのだ。

  この旅が幸先のいいものに思える。

  どうぞ一刻も早くサラーラ様がお元気に……そして陛下の元へお戻りになれるように………

  ノーザは心の中でそう願った。

  この無邪気で浮世離れした不思議な魅力を持つ正妃をノーザはすっかり気に入っていたのだ。

  国王と一緒に過ごす時の幸せそうな様子を見ているとこちらまで幸せな気分になった。

  仲むつまじく遊ぶ国王夫妻を微笑ましく思った。

  だから今回のことではノーザはとりわけ責任を感じていた。

  もし自分があの時庭に散歩に出ることを勧めなければ………もしモルディアに出会ったときに

すぐにサラーラを部屋に連れ戻していれば……… いまごろこんなことにはなっていなかっただろう。

  サラーラは心を悩ませることなく、 無事に御子の誕生を待つことが出来ただろう。

  そう思うと悔やまれてならない。

  必ず、 サラーラを元の元気な姿に……

  そのためにはどんなことでもしようと、ノーザは心に誓っていた。

  湖のほとりの木立の間を馬車はゆっくりと走っていった。

 

 







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