楽園の瑕

 

37

 

 

 

    朝、 ファビアスはいつものように一緒に朝食をとり、 サラーラにキスを送ると足早に

部屋を出ていった。

  そんな彼をサラーラはただ黙って見送った。

  部屋着に着替え、 この頃の日課のようになった窓の側の長いすに座ってクルシュの毛を

ブラシで梳かしていく。

  気持ち良さそうに目を閉じてサラーラの膝に顎を乗せるクルシュの首を抱くようにして

無心で手を動かす。

  手から伝わる体温が今のサラーラにとっては数少ない大切なものだった。

  ペロリと顔を舐められて、かすかに笑みを浮かべる。

  ブラッシングを終え、 サラーラは侍女が側のテーブルに置いていった果汁の入った杯を

手に取る。

  クルシュは気持ち良さそうに床に寝そべっている。

  長いすにもたれると、 そのまま背後にある窓の外に目をやる。

  もう風が冷たいからと、 窓は閉められていた。

  窓の隙間からかすかに冷たくなった風が入ってくる。

  どこまでも広がる青い空に、 ふとファビアスと遠乗りに出かけた時のことを思い出す。

  初めて乗った馬の背中。

  怯える自分をファビアスはしっかりと抱いていてくれた。

  安心させるように耳元で囁かれた声の優しい響きが耳に甦る。

  広い草原に下りて、 初めて感じた解放感と孤独感。

  そして、 ファビアスを膝枕したときのどこかくすぐったい安心感。

  彼の髪の毛をそっと梳いた時の柔らかく冷たい感触。

 ”俺がいなくて寂しいか?”

  あの、 出かける前にそう尋ねたファビアスの声が耳に甦る。

  寂しい。

  サラーラはそう思った。

  ファビアスがいない部屋は何故か暗く寂しく感じる。

  窓の外を眺めながらもサラーラの心はファビアスのことばかり考えていた。

  ファビアスがいないと不安だった。

  彼に抱きしめられると安心する。

  しかしいくら抱きしめられても以前のように満たされた気分にはなれなかった。

  どこかに不安が残る。

  あの遠乗りの日が遠い昔に感じる。

  あの時、 自分の周りは本当に明るい光に包まれていたように思う。

  ファビアスは今も優しい。

  いつもサラーラを優しく包んでくれている。

  しかしあの時とはどこかが変わってしまった。

  微笑む目のどこかがサラーラを探っているようだった。

  情熱的に自分を抱きながらも、 サラーラの反応を窺っているように思えた。

  どこにも行かせない、 と言う。

  俺のものだと何度も言う。

  たくさんの兵士達によって厳重に外から隔離されたこの部屋がそれを物語っている。

  あのサラーラの逃亡がファビアスの心に深い根を残したのだ。

  逃亡………

  サラーラはあの時のことを思い出そうとして首を振った。

  乳母の無惨な死に姿を思い出したくなかった。

  自分に伸ばされた手の先に光る刃。

  自分を見る乳母の恐ろしい狂った瞳。

  心を開くな、 騙されるな、 と乳母はサラーラにいつも言い続けた。 

 ”汚らわしいあの男に……っ”

  自分に向かって哀しそうにつぶやいた乳母の言葉を思い出しかけて、 サラーラは激しく

首を振った。

  これ以上は思い出したくない。

  まざまざと甦りそうになる記憶を正面から受けとめる気力は今のサラーラにはまだなかった。

  現実から目を背けていたかった。

  今、 乳母のことを、 あの時のことを思い出すと、 今いるこの場所さえ失なってしまいそうな、

そんな気がした。

  今はいや………

  そう思いながら、 窓の外に目をやる。

  他のことを考えたかった。

  緑の生い茂る城庭を見下ろしたサラーラは、 そこに見なれた姿を見つけた。

  ファビアス様……!

  彼は庭を歩きながら何かを探しているようだった。

  何を……?

  ファビアスの姿を窓から目で追っていたサラーラは、 彼に近寄る一人の人間に気付いた。

  思わず目を見張るほど綺麗な女性だった。

  艶やかに光を弾く豊かな黒髪を背に流し、 華麗なドレスで身を包んでいる。

  ファビアスに微笑みかけるその顔は、 艶麗な魅力に溢れていた。

 





                 

                    
戻る