部屋に入るなり、 ニコルは本日３度目の感嘆の声を上げた。

　「すごい………こんな綺麗な部屋見たことない……」

　 ほうっとため息をつく。

　 ニコルのために用意されたという部屋は元来侯爵夫人のための私室だった。

　 居間、 寝室とニ間続いた部屋の他に、 侍女の控えの間や衣装部屋などの小部屋もある。

　 この家の女主人のための私室は、 先ほどまでいた居間以上に豪華なものだった。

　 用意された調度品も何もかもが触れるのが恐ろしいほどに高価なものばかりだ。

　「それでは私はこれで………御身の周りの世話をする者があちらに控えております。なにかご用が

ございましたらお呼びください」

　 しばらくぼうっと部屋を見まわしていたニコルは、 執事の言葉にはっと我に返った。

　「し、 執事さんっ！」

　 出て行こうとするカディスの服の裾を慌てて掴んで引き止める。

　「僕、 こんな立派なお部屋もったいなくて………それにあんな高価なものばかり置いてあると、 壊しちゃった

らって怖くて中歩けません。 もっと普通のお部屋ありませんか？　小さくっていいんです。 もっと普通の、 こんな

立派なものが置いていない………」

　「普通………でございますか？」

　 立派過ぎてダメだ、 と訴える少年に、 またカディスは言葉に詰まった。

　 クレオール侯爵夫人になろうという人間が、 この部屋は立派過ぎると遠慮しているのだ。

　「そうです。 僕、 家では兄と同じ部屋だったんです。 それもここよりずっと小さな部屋で……だからこんなに

立派なところでなくていいんです。 もったいなさ過ぎます」

　「しかしこちらは侯爵家の奥方のための………」

　「こんな広いお部屋いただいて、 僕どうすればいいんですか？　僕一人だけなのに、 お部屋二つも使わない

ですよ。 ベッドだって僕こんなに小さいのにあんなに大きくて………ベッドをもっと小さくすれば、 お勉強用の

机もちゃんと一つの部屋に入ります。 今でも充分入りそうですけど………」

　「いえ、 ですから………」

　「こんな立派なお部屋、 僕困ります………」

　 そんなことを言われても私の方が困る！

　 途方に暮れた目で自分を見るニコルに、 もはやカディスは絶叫寸前だった。

　 叫びたくなるのを必死にこらえながら、 何度か深呼吸する。

　「………ニコル様、 こちらは侯爵夫人にふさわしい部屋として何もかも用意させていただきました。

クレオール侯爵家はこの国でも五指に入るほどの名門です。 もはやあなた様はこの家の奥方様なのですから

それ相応のお心構えをしていただかなくては………デューク様…侯爵様の名に恥じぬように………」

　 デュークの名にニコルがさっと赤くなる。

　「あ………ごめんなさい。 僕、 執事さんを困らせちゃいました？」

　 執事の言葉にニコルは自分の立場が今までとは全く違うことに改めて気付いた。

　 そうだ。 自分は侯爵夫人なのだ。

　 今まで自分が暮らしてきたあの小さな家とここは全然違うんだ。

　「そうですよね。 こ、 侯爵夫人ならこんな立派なお部屋に住むの当たり前ですよね」

　 困った表情をしながらも部屋を変えることだけは諦めた様子のニコルに、 カディスはほっと息をついた。

　 まったくなんという花嫁だ。

　 本日数度目の言葉を心の中でつぶやく。

　「ご納得いかれたのでしたら私はこれで………あとは側仕えの者が参りますので」

　「執事さん！」

　 改めて部屋を出て行こうとしたカディスは、 またしてもはっしと服を掴まれた。

　「ニ、 ニコル様……っ？」

　 振り返るとニコルがまた訴えるような目で自分を見上げている。

　「僕、 自分のことは自分で出来ます。 側仕えって……っ」

　 いらないとぷるぷる首を振る。

　「………ニコル様、 何度も申しますように侯爵夫人ともあろう方は身の回りのことは側の者に……」

　「でも僕自分で出来るんです。 それに側仕えの人って女の人なんでしょう？　僕、 女の人の前で着替え

なんて恥ずかしくてできません！」

　 必死に訴えるニコルにカディスはう〜んと唸る。

　 確かに花嫁と言えどニコルは男性だ。 それもまだ少年だ。

　 そばに異性がいては気が落ち着かないだろう。

　 しかしそうは言っても侯爵夫人の側に男の召使いを置くわけにも……

　「………ではこうしましょう。 一人だけ側に置くことをお許しください。 といってもお着替えなどはご自分で

していただいて結構です。 もし何か困ったことが起こったときのための相談の相手と考えてくだされば……」

　「相談？」

　 ニコルが目をぱちくりとさせる。

　「そうです。 まだこの侯爵家に来たばかりのニコル様ではわからないことがたくさんあることでしょう。 私も

いつもお相手して差し上げるわけにもいきませんし、 何よりも侯爵夫人としての一応の礼儀作法などを教える

者が必要でしょう。 いかがですか？」

　「それなら………うん、 そうですね。 僕、 何もわからないから……」

　「ご理解いただけて良かったです。 それではすぐにでもニコル様に合う人間を選んで参りますので……」

　 今度こそ部屋を出て行こうとする。

　 が、 またしてもカディスの足は部屋の外に出ることは出来なかった。

　「あの、 執事さん……っ」

　 先ほどより幾分ためらいがちの声がカディスを引き止める。

　「まだ何か……？」

　 そう穏やかに尋ねながらも、 カディスの心の中はもう爆発寸前だった。

　 まだ何かあるというのか！

　「あの………お風呂いただいてもいいですか？　僕、 すごく汚れてて……お部屋汚しちゃいそうで……」

　 ニコルは困った表情を浮かべながら自分の泥だらけの身体を見下ろした。

　「これは………気がつきませんで……失礼いたしました」

　 爆発しそうだった苛立ちが申し訳なさに変わる。

　 言われるまで気付かなかった自分が恥ずかしい。

　 本当ならまず最初に湯浴みを進めるべきだったのだ。

　 それをいくら動転していたからといって、 ずっとニコルに汚れた姿でいさせてしまった。

　 内心自分の汚れた姿に身の置き所がない気持ちだっただろう。

　 花嫁としては予想外の人間だったが、 それでも少年自身はちゃんと躾られた礼儀正しい少年だと、

カディスはこの短い期間に感じていた。

　「すぐに準備をいたします」

　 カディスは申し訳ない気持ちを抱きながら、 部屋の外に控えていた召使いに浴室の準備を命じた。

　









　 そして、 カディスは本日二度目の驚愕に心臓が止まりそうになる。

　 湯浴みをして全身の泥を落とした少年は、 少し前までのみすぼらしい姿とは全く違っていたのだ。

　 大きく澄んだ緑色の瞳、 肩で切りそろえられた甘く輝く明るい栗色の髪がふんわりとカールしながら小さな

顔を縁取っている。 湯上りの上気した頬は健康的なピンク色だった。

　 先ほどまでは細く貧弱に見えた体も、 泥を落とし清潔な服を着た今では華奢で繊細に見える。

　 執事も侯爵も、 邸の誰もがただの薄汚れた少年だと思っていたニコルは、 目を見張るほどの美貌を

持っていたのだ。