Dear my dearest

 

28

 

 

 

   「あああっ!」

  突然ニコルが大きな声を上げた。

 「ど、 どうした?! どこか痛いのか?」

  まさかどこか怪我でもしていたのかとデュークがさっと顔を強張らせる。

  しかしニコルの悲鳴はそんな理由ではなかった。

 「どうしようっ また侯爵様のお洋服汚しちゃった……っ!」

  ニコルの視線はデュークの胸元に注がれていた。

  視線を追って自分の姿を見下ろしたデュークの目に、 べったりと泥に汚れた上着が映った。

  ニコルの泥と草に汚れた体を抱きしめた時についたのだろう。

 「ああ………気にするな。 こんな汚れ、 なんでもない」

  顔を曇らせるニコルにデュークは笑って言いのけた。

  実際自分でも不思議なほど全く気にならなかったのだ。

 「でも………っ」

  それでも心配そうに自分を見上げるニコルを慰める事の方が今のデュークには大切なことに思える。

 「洗えば落ちるのだろう? 後でまた着替えればいい。 それよりもニコル、 今まで何をしていたんだ?」

 「本当に? 本当に怒ってらっしゃらない?」

  この厩舎に来た理由をニコルは思い出していた。

  先ほどテラスでデュークの服を汚して、 彼を怒らせてしまったのだ。

  それなのに自分はまた………

  デュークがここに来たことに浮かれていたニコルは、 またしても自分が失敗してしまったことに気分を

落ち込ませた。

 「怒っていない。 先ほどのことも気にしていない。 ニコルがわざとやったことではないだろう? 子犬が

じゃれただけのことだ」

  そんなニコルにデュークはきにしていないと何度も告げた。

  カディスの言ったとおり、 少年はあんな些細なことでその小さな胸を痛めていたのだ。

  デュークの心にこの少年を慈しむ思いが沸き起こる。

  出会いは最悪だった。

  初対面の姿のみに目を向けてずっと少年から目を背けていた自分に腹が立つ。

  意に染まぬ結婚、 意に染まぬ相手だとニコルを避け続けて、 外出を繰り返していた日々が惜しまれた。

  この少年のことをもっと知りたい……

  胸に抱きしめて、 優しくしてやりたい。

  少年の喜ぶことをなんでもしてやりたい………

  少しづつデュークはこの無垢な少年に心惹かれていった。

 





 「よかった……」

  本当にデュークが少しも気にしていないとわかったニコルが安堵したように笑った。

  と同時に、 どうしてデュークがあんなに怖い顔をして自分を呼んだのか気になってくる。

  疑問を素直に口にしたニコルにデュークは途端に真剣な顔をした。

 「ニコル、 君は知らなかっただろうがあのダナンはとても危険な馬なんだ。 気難しくて気性も荒い。

むやみに近づくとひどい怪我をすることになりかねない。 これからはあの馬がいないかどうか確かめて

厩舎に行きなさい」

  デュークの言葉に、 しかしニコルはきょとんとして言った。

 「でも侯爵様、 ダナンは僕の友達です。 いつも一緒に遊んでるんです」

  その言葉に今度はデュークが目を見開く。

 「と、 友達………だと?」

 「そうです。 ………ほら」

 「ニコル………っ」

  そう言って大きな黒馬に近づくニコルの姿にデュークは少年を止めようと足を踏み出した。

  が、 その足がそれ以上動く事はなかった。

  デュークは自分の目が信じられなかった。

  自分に近寄ってきた少年に、 なんとあの暴れ馬が素直に首を垂れたのだ。

  そして鼻筋を撫でる小さな手に気持ち良さそうに目を細めた。

 「これは………」

  静かにおとなしく少年の手を受け入れている馬と少年の姿をデュークは声もなく眺めていた。

  あの気難しい馬が少年に懐いている…………っ

 「ね? ダナンはとってもいい友達なんです」

  自分を振り返って笑うニコルが目に眩しい。

  ニコルの肩に甘えるように鼻面を寄せてくる黒馬が、 背後から少年を守っているように見えた。

 「・……………くっ」

  ふいに笑いが喉からこみ上げてくる。

 「あっはははは………っ!」

  何も知らず少年を狂暴な馬から守ろうとした自分がおかしかった。

 「侯爵様?」

  笑う自分をニコルが不思議そうに見つめている。

  しかしデュークはこみ上げてくる笑いを抑えることが出来ず、 ただ笑いつづけていた。