Dear my dearest

 

27

 

 

 

   「ニコル……っ!」

  突然自分の名を呼ばれたニコルは、 その声の主を探して後ろを振り返った。

  そこには顔を引き攣らせたデュークが立っていた。

 「侯爵様……」

 「動くなっ じっとしていろっ!」

  何事かとそちらに足を踏み出そうとして、 切羽詰った声の響きに動きを止める。

  どうしてデュークがそんなに怖い顔をしているのかわからない。

  きょとんとした顔で首をかしげた。

  デュークは荒馬の側に立つ少年のそんな無防備な姿にますます危機感を募らせる。

  あの黒馬は乗馬に関してはそこそこの腕を持つ自分でも手におえないほど荒い気性の持ち主だ。

  もし何かの弾みであの馬が機嫌を損ね、 少年に襲いかかったら………

  ニコルの小さな体に向かって前足を振り上げる黒馬の恐ろしい姿を想像する。

  背筋を冷や汗が伝った。

 「………ニコル……黙って、 そっとこちらに来るんだ………そっと…静かに………」

  静かに手を差し伸べる。

  ニコルは自分に向かって差し出された腕に驚いた顔をした。

  次の瞬間、 その顔が嬉しそうな笑顔に変わる。

  そして、 無造作にトコトコとデュークに向かって歩き出した。

  そのあまりの無造作さにデュークの方がひやりとする。

  ダナンがちらりとニコルの方に眼を向け、 足を一歩ニ歩と踏み出した。

  またデュークは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

  しかし黒馬はそれ以上歩こうとはせず、 尻尾をゆらりと揺らしながら足元の草を食む動作に戻った。

  知らずデュークの口から安堵のため息がもれる。

 「侯爵様?」

  いつのまにか側まで来ていたニコルがその様子を不思議そうに見つめていた。

 「ニコル……っ どうしてあんな所で…! ダナンは…あの黒馬は危険だと誰も教えなかったのかっ?」

  少年の無事な姿を見て自分でも不思議なほどの安堵を覚えた。

  そして安心すると同時に、 少年にあの黒馬の恐ろしさを教えていない馬番への怒りが込み上げてくる。

  まかり間違えば、 今ごろ少年はあの馬の蹄にかかって命を落としていたかもしれないのだ。

  ぞっとするような想像に、 デュークは思わず少年の体を引き寄せていた。

 「こ、 侯爵様……っ?!」

  うろたえた声を出すニコルにかまわず、 その小さな柔らかい体を抱きしめる。

  自分の腕の中にすっぽりと納まる体に、 デュークの胸に温かいものがこみ上げてきた。

  少年はいい匂いがしていた。

  花と緑と太陽の匂いだ………

  今まで抱いてきた貴婦人達とは全く違う、 健康的な匂い。

  しかしそれが今のデュークには何よりも心地よいものだった。

 「侯爵様……っ 苦しい………っ」

  知らず知らず腕の力を強めていたらしい。

  腕の中から苦しさを訴える声が聞こえ、 デュークははっとして腕の拘束を解いた。

  見下ろすと、 少年が真っ赤な顔をしてじっと立ちすくんでいた。

 「す、 すまなかった……ニコル、 怪我はないか? どこか痛いところは……」

 「侯爵様………僕、 侯爵様が僕の名前呼んでくれたの、 初めて聞きました…」

  怪我はないかと少年の全身に目を走らせるデュークに、 ニコルがぽつりと言った。

 「え……」

  見ると、 ニコルは真っ赤になりながらも嬉しそうに自分を見上げていた。

 「そうだったか?」

  そういえば………

  今まで口に出して少年の名を言った覚えがない。

  ましてやニコルとまともに口をきいたのは今朝が初めてだ。

  それまでも少年を疎んじていた自分が彼の名前を口にする機会などなかったに等しい。

 「そうだったな………」

  かすかな罪悪感と共につぶやく。

 「僕、 とっても嬉しいです」

  しかしニコルはデュークのそんな胸の内も知らず、 ただ嬉しそうにそう言った。

 「そうか………」

  頬を染め、 嬉しいと口にする少年を見つめながら、 デュークは自分の口にも笑みが浮かんでいる事に

気付かなかった。