Dear my dearest

 

15

 

 

 

   「今日も侯爵様、 お帰りにならなかったね」

  その夜、 ベッドに入ったニコルは傍らで一生懸命にシーツを口に咥えて引っ張っている子犬に

話しかけた。

  もう何日会っていないだろう。

  話したいことがいっぱいあった。

  まだたくさんの綺麗な洋服を作ってもらったお礼も言っていない。

  あまりに手触りが良く綺麗な洋服を普段着るのがもったいなくて、 いつまでもそれまでの洋服を着る

ニコルにカディスがどうしたのだと尋ねてきた。





 「だって、 僕馬に触ったり、 お庭に行ったりするから、 折角の綺麗なお洋服汚れちゃうと思って…」

 「そのような事お気になさらず着てくださいまし。 ニコル様に着ていただくための服です」

 「でも汚しちゃったら………」

  今までよそいきにさえ着れなかったような高価な服を普段に使うように言われ、 ニコルは真剣に

悩んだ。

 「ニコル様」

  そんなニコルにカディスはにっこりと笑って言った。

 「ニコル様、 この邸には洗濯がとても得意な者がおります。 ですからニコル様がいくら汚されても

大丈夫ですよ。 その者がちゃんと元通り、 綺麗にしてしまいますから」

 「ほんと?」

 「ええ、 彼女はとても洗濯が好きなのですよ。 ですから思う存分に汚してくださいませ」

  カディスの言葉にニコルはぱっと破顔した。

 「うん! …………でも僕もちゃんとお洗濯手伝うからっ 自分が汚したものだもんね」

  その言葉とおり、 とても洗濯の上手な下女と一緒に洗濯ものを干すニコルの姿がしばしば見られる

ようになった。

  楽しそうに女と笑いあいながら洗濯ものを抱えるニコルの様子に、 それを咎められる者は一人も

いなかった。





 「毎日美味しいものをたくさん食べさせてもらえて、 お菓子や綺麗な本やお花をいただいて、 いっぱい

いっぱい侯爵様にお礼を言いたいのに………」

  侯爵は乗馬がとても上手だとカディスは言っていた。

 「一緒に馬にも乗りたいな………」

  あの黒いダナンに颯爽と乗った侯爵はとても格好いいだろう。

  その様子を想像して思わずうっとりとする。

 「お仕事ずっと忙しいのかな……」

  ねえ、 と尋ねるニコルに、 シーツとじゃれるのに飽きたのか、 子犬が大きなあくびをする。

  そのままニコルの傍らにコロンと転がると、 すぐにすやすやと寝入ってしまった。

  小さなお腹が寝息に合わせて上下に動く。

 「おやすみなさい………」

  子犬につられるようにニコルも眠気を覚え、 そのままもぞもぞとシーツの中に潜り込んだ。

  明日は侯爵様、 お帰りになられるといいな………

  そう思いながら、 夢の世界へと入っていった。











 「お帰りなさいませ」

  ニコルが夢の世界へと旅立った頃、 デュークが邸にふいに戻ってきた。

 「ああ」

  出迎えたカディスに外套を手渡しながら不機嫌そうに頷く。

 「突然のご帰宅ですね。 お珍しいことで・………しばらくはこちらにはお戻りになられないかと思って

おりました。 何かございましたか?」

 「それは嫌味か?」

  執事の言葉にデュークがますますしかめ面をする。

 「いえ、 とんでもない。 ただ侯爵様はとてもお忙しくてとてもこちらに戻られる時間はないと思って

おりましたので」

 「カディス、 それを嫌味だと言うんだ。 私が忙しいなどと………女遊びに明け暮れて忙しいとでも

仄めかしているのか?」

 「おや、 違うので?」

 「……………」

  否定できないデュークはただむっつりと黙るしかなかった。

  そのまま自室の居間に入り、 どかりとソファに座る。

  すかさず召使いが熱いお茶を持ってきた。

 「ワインはないのか」

 「もう今夜は散々飲んでこられたのではありませんか? 先ほどからアルコールの匂いがぷんぷんと…」

 「あれしきの酒、 もうすっかり抜けてしまっている」

 「お酒を過ごされてご婦人のお相手ができませんでしたか?」

 「あけすけに言うな」

  あたらずも遠からずの言葉にデュークはむっと執事の顔を睨んだ。

 「突然家の主人が帰ってきたんだ。 気付かれずに抜け出すのに苦労したんだぞ」

 「それはそれは………」

 「くそ、 やっと口説いた子爵夫人だぞ。 もう少しだったというのに………酒など飲まずさっさとやって

しまうんだった」

 「………………デューク様、 それはあんまりかと」

  主人の女癖の悪さは承知しているつもりだったが、 それでもこの言葉は侯爵家の当主としては

品がよろしくない。

  カディスは顔をしかめながら諌めた。

 「ふん……………なんだ、 いつもと部屋の雰囲気が違うな。 召使いが変わったのか」

  きまり悪そうにそっぽ向いたデュークだったが、 ふと部屋の様子に目をやって首をかしげた。

  いつも目にしている自分の部屋だった。

  しかしどこかが違う。

  いつもよりずっと明るく、 そして心が落ち着くような………

  デュークはマントルピースの上に、 いつもはない花瓶を見つけた。

  そこには優しい色合いの花々が溢れるほどに生けられていた。

  そしてかすかに薫るこれは………

 「なんだ、 花の匂いのようだが、 そこの花瓶からではないな」

 「ああ、 ポプリというものですよ。 乾かした花をまとめてクッションに入れております」

 「お前がやった……………はずないな。 新しい女中でも入ったのか?」

  その言葉にカディスは肯定も否定もせず、 ただ何とも言えない笑みを浮かべただけだった。

  実はニコルがしたことなのだとは、 少年を心底疎んでいる様子のデュークにはとても言えない。

  ニコルはデュークの部屋は自分が掃除したいと言い張った。

  そしてすこしでも彼が居心地がいいようにと小さい頭をあれこれひねって工夫したのだ。

  仕事に疲れているだろう彼が少しでも安らげるように、 目に優しい色合いの花々を生け、 心が

落ち着くようにと庭から花を摘んできていい香りのするポプリを作った。

 「悪くはないな………」

  部屋の中を見まわしたデュークは表情を和らげてそう言った。

  その言葉に、 カディスが薄く微笑む。

  明日、 ニコルに教えてあげよう。

  デュークが気に入っていたと。

  どんなに喜ぶだろうか、 あの優しい少年は少しでもデュークの役に立とうと一生懸命なのだから。

 「それでは私はこれで」

 「ああ」

  妙に機嫌が良くなった様子の執事の後ろ姿を首をかしげて見送りながら、 デュークは自分も

休もうと上着を脱ぎながら寝室に入っていった。

  ふとベッドに目をやって軽く眉をあげる。

  枕元には小さな花束と一緒にチョコレートの乗った可愛い器が置いてあった。

  近寄ってそれを手にとる。

  色紙で出来た器に目をやって、 デュークは顔を綻ばせた。

  そこには綺麗な字で一言書かれていた。

 ” 良い夢を ”

  今度の召使いはよほど気の効く人間らしい。

  添えられていたチョコレートをぽんと口に入れる。

  かすかに酒のきいた甘い味が口一杯に広がる。

  普段さほど甘い物を口にしないデュークだったが、 美味いな、 と思った。

  そしてそのまま安らいだ気分で床についたのだった。