FEED (前編)
「ああ、
やっぱり降ってきたな」 多谷はウィンドウの外を見て顔をしかめた。 見ると、 外は土砂降りの雨だった。 「もう少しもつと思ったんだけどな。 傘も持ってないし……どうする? 朔巳」 「え……俺は別に今日じゃなくても……まだしばらくやってるんだろう?」 多谷の問いかけに朔巳は笑ってみせた。 今日は多谷が友人からチケットを手に入れたという博物館展に行く予定だった。 すこし遠い場所にあるそこには電車でも時間がかかる。 ついでにそのすぐ近くにある公園を散策して、 夕食を取って帰ろうという話になっていた。 だがこの激しい雨では散策どころではないだろう。 第一、 傘も持っていないのでは外を歩くこともできない。 「そうだな……仕方ない、 またにするか」 多谷はため息をつくとカップを持ち上げ、 中に残っていたコーヒーをぐいっと飲み干した。 「といってもずっとここにいるわけにはいかないしな。 朔巳、 俺んちに来るか?」 「え?」 「ここからなら俺の部屋すぐ近くだし、 傘貸してやるよ」 ついでに少し休んでいけ。 そう笑う多谷に、 朔巳は戸惑いを隠せなかった。 多谷の部屋に行くのは初めてだった。 いつも会うのは学校か外だったので、 いきなり来いと言われてとっさに反応できない。 しかし多谷はテーブルのレシートを取り上げると、 さっさと喫茶店のレジに向かってしまった。 「和春っ 俺も払うからっ」 慌てて朔巳は財布を取りだしながら多谷の後を追った。 部屋に着くと、 多谷はびしょぬれになった頭を振りながら中に入っていった。 結局、 多谷の言うままに部屋まで来てしまった。 朔巳は初めての多谷の部屋に、 緊張を隠せなかった。 玄関でぼうっと立っていると、 多谷がタオルを片手に戻ってきた。 「ほら、 とりあえず上がれ。 ……ああ、 その濡れた服なんとかしないとな。 俺の服出してやる からシャワー浴びて来いよ。 体、 冷えてるぞ。」 春先のまだまだ冷たい雨は、 朔巳の体をすっかり冷やしてしまっていた。 多谷はタオルを朔巳の頭にかぶせてごしごしと擦ってやる。 「か、 和春……っ 自分でできるから……」 朔巳は真っ赤になって多谷からタオルを取り上げる。 「ほら、 体暖めてこい。 その間に何か飲み物でも作ってるから」 「でも和春も……」 自分のことは後回しに朔巳のことばかり気遣う多谷に、 朔巳も多谷のびしょぬれの体を心配する。 「俺は大丈夫だから。 ……それとも一緒に入るか?」 からかいを含んだ目でそう言われ、 朔巳は再度真っ赤になって首を振った。 「いいから入って来いよ」 そんな朔巳に笑いながら、 多谷は朔巳の体を洗面所に押し込んだ。 多谷がキッチンで湯を沸かしている間に、 朔巳は急いでシャワーを浴びた。 熱い湯にあたっていると、 冷えた体が温まっていくのがわかる。 簡単に体を洗いシャワーで泡を流すと、 さっさとバスタブから出る。 一人暮らし用のユニットバスはかなり狭い。 タオルで水気をぬぐって置いてあったスウェットに腕を通す。 「……大きい…」 ぶかぶかだった。 上は袖が長くて指先まで完全に隠れてしまっている。 持ち上げると余った部分がだらんと垂れ下がる。 肩は落ちてしまっているし、 裾の部分は太腿の半ばまで来ている。 下を穿いた朔巳は思わずため息をついた。 紐で縛るようになっているウェストはまだいい。 だが裾は何度も折り返さなければならなかった。 「和春ってやっぱり俺よりだいぶ大きいんだ……」 洗面台の鏡に映る自分は、 まるで大人の服を着た子供のようだった。 なんだかみっとももなくて多谷の前に出るのが恥ずかしい。 ためらっていると、 タイミング良く多谷の声がした。 「朔巳? 上がったか? コーヒーはいったぞ」 水音が止まってだいぶ時間が経ったのに、 一向に出てこない朔巳を心配して多谷が声を かけてきた。 「ご、 ごめんっ すぐ出るからっ」 多谷の声に朔巳は慌てて返事した。
想像どおり、 やっぱり自分の服は朔巳には大きすぎたようだ。 洗ってくしゃくしゃになった髪の毛のまま、 ぶかぶかの服を着た朔巳はどこから見ても 無防備で可愛かった。 手を出してしまいそうになるのを必死に我慢する。 「来いよ。 コーヒー冷めるぞ」 もじもじと突っ立っている朔巳を部屋の中に促がす。 カップを持たせてやると、 素直にベッドの側のテーブルの前に座りこんだ。 両手でカップを持ってこくんと熱い液体を一口啜る。 その可愛らしい姿にまた顔が崩れそうになる。 朔巳が自分の部屋にいることが信じられなかった。 今まで何度か呼ぼうとしたのだが、どうしてかいつもタイミングをはずしてしまい、 なかなか 誘うことができなかった。 今日の雨はまさに渡りに船だったのだ。 「あ、 和春。 和春もシャワー早く浴びないと……風邪ひいちゃう」 一人で悦に入っていた多谷に、 朔巳が心配そうに言った。 「あ? ああ……そうだな。 俺もさっと浴びてくるよ。 朔巳、 その辺のもの好きにしてていいから」 濡れたままだった自分の格好を思い出し、 多谷はひとまず洗面所に消えた。
ワンルームの部屋はそんなにものが置いていなかった。 ベッドと小さなテーブルと壁際に置かれたラックと本棚。 床に積み上げられた本が多谷の読書量を物語っている。 所々に散らばった衣類が、 何故か朔巳の心をほっとさせた。 いつもしっかりしている多谷でもこんなところがあるんだ。 初めて見る多谷の部屋は、 居心地のいい空気が漂っていた。 後ろにあるベッドにぽふんと頭を凭せ掛ける。 布団からは多谷の匂いがした。 目を閉じると緊張していた心がだんだんと落ち着いていく。 かすかに聞こえるシャワーの音が多谷の存在を教えてくれる。 妙に幸せな気分になりながら、 朔巳はうとうとと眠気に誘われた。
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