N G
8
ショックを受けたようなジェフリーの様子にいたたまれず部屋を出てきた恭生だが、
別にどこへ行くという 目的もなく廊下を歩いていた。 しかし母屋へ足を踏み入れた途端、 ふと耳に入ってきた楽の音に足を止めた。 この時間はいつも門下 の弟子達が父の教えを受けているのだ。 恭生はその音につられるかのように、踊りをやめてからずっと避け続けてきた稽古場に足を踏み入れた。 特有の張り詰めた空気に、 恭生は久々に身の引き締まるのを感じた。 目の前では弟の優生が、 発表会用のものだろう踊りを舞っていた。 時々父の叱咤が飛ぶ。 見ていると だんだん踊りを舞っていた頃の自分の姿が、 優生の姿と重なってくる。 稽古場の出入り口に立ったまま、 いつしか恭生は優生の舞姿をじっと眺めていた。 「今日はここまでにしよう。」 父の言葉にはっと我に返る。 「ありがとうございました。」 深くお辞儀をして舞台を降りててくる優生が、 入り口に立つ恭生の姿に気付いた。 「恭兄さん? 珍しいね、 兄さんがここに来るなんて。 どうしたの?」 「いや、 別になんとなく……。」 いいごもる恭生を気にした様子でもなく、 優生はあっと声をあげた。 「そういや、 ジェフリーは帰って来た? 俺学校の宿題で英文の訳がわからないところあるんだ。 あいつ に教えてもらおうと思ってさ。」 無邪気に聞いてくるが、 恭生はとっさに言葉を返すことができない。 深く深呼吸をして答える。 「……あいつなら俺の部屋だ。 まだいるんじゃないか。」 「ほんと? じゃあ今の内に教えてもらっちゃおう。」 「あ、 優生……。」 言いながら部屋を出ようとする弟に、 恭生はとっさに声をかけた。 「何?」 優生がひょいと振り向く。 「いや……、 お前ジェフリーのことどう思ってる?」 「ジェフリー? どうって言われてもなあ。 いい奴だろ。 いろんな物くれるし、 学校の宿題手伝ってくれる し、 いつもニコニコしてて親切だし……。 うん、 いい奴だよ。」 「それだけか?」 「それだけって、 何で? 俺ジェフリーがいい奴でよかったと思ったけど。 ほら、 あいつの家ってN.Yじゃ 結構有名な金持ちなんだろ。 そういうところの息子って高飛車でえらそうな奴だと思ってたから。」 だからどうした、 と言いたげな優生の様子に好意以上のものは感じられない。 「そうか……悪かったな、 変なこと聞いて。」 「いいけど。 どうしたの? 兄さん、 なんだか嬉しそうだよ。」 優生が顔を覗きこんでくる。 そしてじっと恭生の顔を見るとうんうんと納得したように頷いて言った。 「心配しなくてもいいよ。 おれ兄さんのジェフリー盗ろうなんて思ってないから。」 「! ばっ……何言うんだよっ。 誰が誰のっ」 「だいじょぶ、 だいじょぶ。」 狼狽する恭生を尻目に、 笑って手を振りながら優生は部屋を出ていった。 あとには呆然と立ちすくむ兄一人。 「……俺が嬉しそう? 何で?」 頭の中では弟の言葉がぐるぐると回っていた。
もちろんその手にはしっかりと学校の教科書が抱えられている。 一応ノックをして扉を開く。 「ジェフリー、 いる? ちょっといいかな。」 部屋を覗きこむと、 目当ての彼は部屋の真ん中に座り込んで手の中の何かをぼうっと見つめていた。 「ジェフリー? どうかした? 何見てるの。」 近寄って肩に手をやると、 ジェフリーは初めて気付いたように優生を見た。 「ああ……。 ごめん、 来てたのか。」 「来てたって、 ここ恭兄さんの部屋なんだけどね。 それで何見てたの、 これ?」 優生が指差した先に、 先程恭生がつき返したかんざしがあった。 「へえ、 綺麗じゃない。 どうしたの、 これ。 ジェフリーが買ってきたの?」 細工の見事さに優生が賞賛の声をあげる。 しきりに感心する湯生の様子に、 ジェフリーは薄く微笑んだ。 「優生、 気に入ったのなら……。」 君にあげようか、 と言いかけて口ごもる。 どうしてか ”あげる” の一言が出てこないのだ。 先程このかんざしをじっと見つめていた恭生の姿を思い出す。 ジェフリーが困ったように手でもてあそぶかんざしを見ながら、 優生はさっきまでのはしゃいだ様子と 打って変わって真剣な口調で話し出した。 「俺さ、 ジェフリーが来てくれてよかったと思ってるんだ。」 突然の優生の言葉に、 ジェフリーは訝しげに彼を見た。 「ほら、 うちって踊り中心に家が回ってるって感じだろ。 実際父さんも逸生兄さんも俺も踊り第一の生活 してるし、 母さんもお弟子さん達の面倒や後援会やらで飛び回っているし、 踊りをやめた恭兄さんにとって この家って居辛い場所なんじゃないかって思うよ。 この離れに部屋移したのだって、 ちょっとでも踊りの世 界とは無関係の場所作りたかったからなんじゃないかな。」 湯生は一息いれるように口を閉じると、 ジェフリーを見て笑った。 「だからさ、 踊りとまったく関係のない世界から来たジェフリーと話す兄さんがとても楽しそうでさ、 俺 ああよかったなって思うんだ。 兄さん踊りやめてから家の中ではあんまりしゃべらなくなって、 なんか俺達 に遠慮してるみたいだったから。 さっきなんか踊りやめてから絶対入ろうとしなかった稽古場に来ててさ、 俺びっくりしちゃった。」 「……恭生は踊りに向いていないからやめた、 と。」 それまで黙って優生の話しを聞いていたジェフリーが、 ポツリと言った。 その言葉に優生が複雑そうな顔をする。 「……うん。 そうだね。 恭兄さんがそう言うなら……向いていなかったんだね。 きっと。」 そう言って黙ってしまった。 しばらく二人静かに黙って座っていたが、 優生が気を取り直したかのように明るい声で言った。 「そうだ。 俺ジェフリーに英語の宿題教えてもらおうと思ってここに来たんだった。 忘れてた、 明日まで なのに。」 「いいよ。 どれだい?」 お願い、 と頼む優生に、 ジェフリーも微笑んで話しを合わせる。 そのまま優生の差し出す英語の教科書の英文を、 二人頭を突き合わせて所々チェックを入れながら 訳していた。 と、 優生がぽそっと言った。 「恭兄さんを頼むね。」 ジェフリーは黙ったまま答えることが出来なかった。 彼の来日の目的は、 今目の前にいる優生のはずだった。 彼に会いたいために必死に日本語を習い、 父と懇意なことを利用して、 夏季休暇中この小須賀の家に居候することを承諾してもらい、 日本へやっ て来たのだ。 なのに、 その優生を目の前にしながらジェフリーは、 自分の気持ちがどこか違う方向を向いているよ うに感じた。 もし優生から今のような言葉を告げられたのがここに来た当初なら、 自分は憤然として否定し、 自分 の好きな相手が優生であることを彼に伝えていただろう。 空港で恭生にしてしまったように、 逆上して いきなりキスの一つもしたかも知れない。 何故自分はこんなに落ち着いているのだろう。 ジェフリーには今自分の気持ちが一体どこにあるのか、 判らなくなっていた。
|