楽園の瑕




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「サラーラ! 動くんじゃない!」

 部屋の中をファビアスの大声が響き渡る。

 その声に、ベッドから下りようとしていたサラーラはビクンと体を震わせた。 驚きに目を見開いている。

「ファビアス様・・・・・・びっくりした。 急にそんな大きな声を出すなんて」

「驚いたのは俺の方だ。 サラーラ、医師の許可もなく勝手にベッドを離れてはならんと言っておいたはずだ!」

 部屋を出ていたのはほんの少しの時間だった。

 早急に目を通さなければならない書類があるとリカルドに泣きつかれ、しぶしぶ部屋を出て行った

ファビアスは、一刻も早く愛妃の元に戻りたいがために、過去最高ともいえる速さで仕事を片付けた。 

それこそ、側にいたリカルドがその速さに目を見張り、そしてため息をつくほどに。

「・・・・・・いつもこのように熱心に取り組んでいただけると嬉しいのですが」

 腹心の嫌味を含んだ言葉にも耳を貸さず、ファビアスはさっさと目の前の仕事を片付けると、

自分を引き止める声を無視し、サラーラの待つ部屋へと急いで戻っていった。

 が、部屋の扉を開けたファビアスが目にしたのは、大人しくベッドに休んでいるはずのサラーラが

起き上がって歩こうとしている姿だった。

「今無理に動いて、腹の子にもしものことがあったらどうする」

 流産の危機を越えてからもサラーラの体調はなかなか元に戻ることがなかった。 それまでの

いろいろな疲れが一度に出たのだろう。 微熱を繰り返しては床に伏せる日が続き、側にいるファビアスを

やきもきさせた。 心配のあまり、城に戻ろうとしなかったくらいだ。 それにようやく心が通じ合ったサラーラの

側を離れることが嫌だったのだ。 体調が思わしくないサラーラを城に連れ戻すわけにも行かず、

ファビアスは頑として離宮から動こうとしなかった。 おかげでリカルドは仕事の山を持って城と離宮を

行ったりきたりすることになった。 今もファビアスが目を通した書類を持って、重臣達の待つ城に向かっている

ことだろう。 しかしファビアスはそのようなことを一向に気にすることはなかった。 今の彼にとって一番重要な

ことはサラーラと腹の子供だ。無事に子供が生まれるまでは安心できない。 ようやく体調は戻りつつあるが、

万が一のことがあってはならない。もう出産まで日もないのだ。 予定まで一ヶ月を切っている。 

が、当のサラーラは元気を取り戻した途端、ファビアスのそんな心配をよそに、ベッドから下りてうろうろと

動き回ろうとする。重いお腹を抱えて部屋の中をひょこひょこと歩き回るのだ。 

「大丈夫だよ。 もうぜんぜん痛くないし、さっきも元気に動いていたよ? 僕のお腹を蹴っていたんだよ? 

ポコポコって何度も蹴るの」

「何? また動いたのか?」

 サラーラの言葉に、ファビアスの表情が輝く。が、その顔はすぐに不本意なものに変わった。

「何故俺がいるときには動かないんだ。 父親の俺に挨拶の一つもないとは、生まれる前から生意気な奴だ」

 言いながら、サラーラの体をひょいと抱き上げると近くの長椅子に座り、自分の膝の上に彼を座らせる。 

そしてそのお腹をじっと見つめた。

 サラーラの話では、子供はお腹の中でよく動くという。しかし、ファビアスはいまだその場に居合わせたことがない。

 今日こそはと、腕に抱えた体をしっかりと抱き、その瞬間を待ち望む。

 しかしいくら待っても、大きく膨らんだお腹はピクリとも動かない。 だんだんと焦れてきたファビアスは愛妃の体を

片腕で抱え直し、空いた手で自分の子供を宿すお腹を何度も撫でた。

「ほら、動け。 お前の父に挨拶をしてみろ」

 真剣な表情で自分のお腹に向かって話しかけるファビアスに、サラーラはクスクスと笑った。

「ファビアス様ったら可笑しいの。 そんなに真剣な顔で僕のお腹に向かって話しかけてるなんて、知らない人が

見たら絶対変に思うよ」

「何とでも思え。俺は何としても子供が動くところが見たいんだ。 俺の子供なんだぞ。父親の俺が見たことが

ないなんてそんな馬鹿なことがあるか・・・・・・ほら、動け。動いてみろ」

 何度も何度もお腹に向かって話しかける。

 その姿がなんとも可笑しく見え、サラーラはクスクスと笑い続けた。 そして笑いながら、自分の大きなお腹を

ポンポンと優しく叩く。

「・・・・・・ほら、父様が挨拶しなさいって。 いい子だね。 動いてごらん」

 お腹に向かって優しく話しかける。 その表情は慈愛に溢れ、まさに母親の表情そのものだった。 

 サラーラのその顔に、ファビアスは見惚れてしまった。 

 自分の腕の中に戻ってきたサラーラは、以前の彼より一段と美しさを増していた。 それは表面上の美しさではなく、

内面の成熟を示すような、深みのある美しさだった。

「恥ずかしいのかな? それとも今はお昼寝の時間なのかも・・・・・・・・・んっ」

 顔を上げてファビアスを見ようとしたサラーラは、しかし突然口を塞がれて言葉をそれ以上紡ぐことができなかった。

 ファビアスがキスをしてきたのだ。

 熱っぽく唇を何度も啄まれ、熱い舌が口中に差し込まれる。 情熱的なキスにサラーラはすぐに応え出した。

 両腕をファビアスの口に回し、そのがっしりとした首にしがみつくように自らもより深くキスを求める。

「サラーラ・・・俺のサラーラ・・・・・・」

 甘い唇に酔いしれたように、ファビアスは何度も何度も口付けを繰り返した。

「ん・・・・・・んん・・・っ」

 が、甘い口付けは突然中断された。

 突然自分の腹に妙な衝撃があったのだ。 それは大きなものではなく、トン、という軽いものだったが、しかし口付けに

夢中になっていたファビアスの注意を引くには充分のものだった。

「・・・な、何だ?」

 何が起こったのかわからず、慌てて見下ろしたファビアスの困惑した表情に、サラーラはクスクスと笑った。

「ファビアス様、動けって言ったじゃない。 赤ちゃんが挨拶したんだよ。 こんにちはって」

「何っ! 今のがそうなのか」

 初めて胎動の瞬間に居合わせたファビアスの表情が輝いた。

「さっきのがそうなのか・・・・・・ほら、もう一度動け」

 先ほどまでの甘い時間もどこへやら、ファビアスはサラーラのお腹に夢中だった。

「っ! 動いたっ 動いたぞっ 今度ははっきりとわかったぞ!」

 お腹に当てていた手に軽い衝撃を感じ、喜びに顔を綻ばせた。

「いい子だ。ちゃんと俺に挨拶をしたぞ。いい子だ。 男だろうか。それとも女か? どちらでもいい。 早く生まれて来い

私に顔を見せろ」

 何度もお腹を撫でながら、甘い表情を浮かべる。 その姿にまたサラーラはおかしそうにクスクスと笑った。

「ファビアス様っておかしいの。 まるでお菓子を見た時のユニみたい」

「子供が動いたんだぞ。 俺の呼びかけにちゃんと答えたんだ。 早く顔を見たくなるのは当然だろう。 サラーラもそうでは

ないのか」

「うん、そうだね。 僕も早く見たい。 早く生まれてきて欲しい」

 そう言って、サラーラは自分のお腹を何度も優しく撫でた。

「もうすぐだってノーザは言っていたね。 あと少ししたら、そうしたら生まれるって」

「体の方は大丈夫なのだろうな。 ちゃんと医師の言うとおりにするんだ。 万が一にもお前の身に何かあってはならん。

そうだ。ベッドに早く横にならなければ」

 お腹の子供に夢中になっていたファビアスだったが、はたと当初の目的を思い出す。

「勝手にベッドを下りてはだめだと言っていたはずだ。 早くベッドに戻れ」

「まだ大丈夫だよ?」

「だめだ」

 まだ起きていたいと抗議するサラーラを抱き上げてベッドに向かう。

「ファビアス様ったら、 僕、まだ起きていたい。 眠ってばかりだと退屈なんだもん」

「もう少しの辛抱だろう。 我慢するんだ」

「う〜〜〜・・・ファビアス様の意地悪」

「お前の体のためだ。 それからこの子のためだ」

 ベッドに横たわらせて、そのお腹にそっと触れる。

「元気に生まれてきて欲しいだろう。 ならもうしばらくだけ辛抱するんだ」

 それでもう〜〜う〜〜不満を漏らしていたサラーラに、 ファビアスはため息混じりに言った。

「・・・・・・俺だって我慢しているんだ。 あと少しなのだから」

「え?」

 何を我慢しているのだろうと、サラーラはきょとんと首を傾げた。 そんなサラーラにファビアスはにやりと笑うと、

いきなり薄く開いた唇に己の唇を重ねた。

「!」

 突然の口付けに目を丸くしたサラーラだったが、しかしすぐに目を閉じて素直に応え出す。

 思う存分甘い唇を味わったファビアスが唇を離した時には、サラーラの表情はとろんと蕩けてしまっていた。

 自分を見上げる潤んだ瞳に、欲望を刺激される。 しかし今はそれ以上先に進むことはできない。

 ファビアスはまたため息をつくと、 サラーラの耳元で囁いた。

「・・・・・・早くお前を抱きたい」

 その言葉にサラーラは体を震わせ、小さくこくんと頷いた。

 サラーラもまた同じだったのだ。 口付けに体が熱くなっていた。 ファビアスによって目覚めさせられた体が男の熱い

抱擁を待ち望んでいるのがわかる。

「ファビアス様・・・僕も・・・・・・」

 小さく囁く声に、ファビアスは眩暈がする思いだった。

 サラーラも自分を求めてくれている。 そのことがこんなに満たされた気持ちをもたらせてくれる。

 体は苦しいが、心はとても満たされている。

 愛しい者に求められる幸福に、ファビアスは今度は満足のため息をついた。







 





 

































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