夜の扉を開いて       







「………でね、そしたら彼ってばとっても喜んじゃってさ」



 突然聞こえてきた声に、藤見はふと足を止めた。

「いっつもいろいろ貢いでもらってばっかりじゃない。 さすがに悪いなって思って昨日は

反対に私の方がいろいろしてあげたの。 ほら、男の一人暮らしってひどいって言うからさ。

ちょっと手料理でもって材料持ってって、ちょこっと掃除なんてしたりして」

「ああ、そうだよね〜 されるばっかりじゃあねえ。 たまにはお返ししないと、男って変なところ

気にするから。 呆れられて突然別れ話なんてされちゃうと嫌だもんね」

「でしょ? こっちも立場があるし」

 藤見の肩がピクリと揺れる。

 別れ話………? されるばっかり……?

 なんだか胸にズキズキと突き刺さる言葉ばかりだ。

「前に一度嫌味みたいに言われたんだよね。 俺ばっかり尽くしてる気がするって」

「何それ〜 もしかして彼氏別れたがってたんじゃない」

「あ、それはない。 昨日すっごく感激してたから」

 きゃいきゃいと笑いながら、看護婦達は廊下を歩いていった。

 藤見に聞かれていることも知らず。

 そして、藤見は彼女達が去った後も、廊下の隅に呆然と立ちすくんでいた。

 …………彼女達の言葉が、あまりにも自分に当てはまりすぎているような気がしたのだ。

 瀬名生と恋人同士になってから、自分は彼に何かしただろうか。

 彼にしてもらったことなら山ほどある。

 大体、一緒に生活するようになってから家事のほとんどは彼に任せてしまっている。

 料理から洗濯から掃除から…………。

 それは藤見が家事オンチということもあるのだが。

 それ以外にも、外出する時も車を運転するのも瀬名生、買い物する時も荷物のほとんどは

瀬名生が持ってくれている。 

 そしていろいろなものを買ってはプレゼントしてくれる。 衣類に関してなど、今藤見の

ワードローブの中身はほとんど全てといっていいくらい、瀬名生が選んだものばかりだ。

 この間は自分に似合うからといって時計を買ってくれた。

 藤見は自分の左手にはまっている時計に目を落とした。

 ……よく似合っている。
 
 そう満足そうに笑った瀬名生の顔を思い出す。

 彼に甘えてばかりいる自分に気づく。

 自分が瀬名生にしてあげたことといったら………。

 考えて、肩を落とす。

 初めて作った朝食は、無残な失敗作に終わった。

 プレゼントしたものといったら、この間何とはなしに買ってしまったセーターくらい。しかし

それも結局は瀬名生が同じものを藤見のために買っていたため、交換という形になってしまった。

 洗濯…は、藤見がもたもたしている間に瀬名生が手際よくアイロンまでしてくれている。

 掃除もまた然り。

「………私は何もしていない………」

” 呆れられて突然別れ話を……… ”

 先ほどの看護婦達の会話が耳に蘇る。

 このままだと、瀬名生に愛想をつかされてしまう?

 藤見の顔に大きな動揺が走る。

 どうしよう……瀬名生に飽きたって言われたら……別れるって………っ

「どうしよう………」

 ここが病院だということも、まだ勤務中だということも忘れ、藤見はその場に呆然と

立ち尽くしていた。










「ただいま……芳留?」

 玄関のエントランスに立った瀬名生は、奥から漂ってくる香りに首を傾げた。

「芳留……何をしている?」

「貴士さん…っ」

 台所に立っていた驚いた顔で藤見が振り返る。

「………もしかして夕食の準備をしてくれたのか?」

 テーブルに並べられた皿を見て、ひょいと眉を上げる。

「あ………」

 藤見は真っ赤になって、慌てたように手に持っていた本を背に隠した。

「芳留?」

 問いかける瀬名生に、何でもないと首を振る。

「何を隠した?」

「何も………あっ」

 何の苦もなくひょいと手から本を取り上げる。
 
 そのタイトルを見て、また眉を上げた。

「………” 今日からあなたも可愛い奥様 ” ……?」

「………」

 藤見の顔が完全に真っ赤になる。

 そんな藤見を面白そうに見た瀬名生は、今度は洗面所から聞こえる音に気づく。

「……もしかして洗濯も?」

「………だって、いつも貴士さんにしてもらってばかりだから……」

 蚊の鳴くような小さな声で呟く。

 瀬名生の顔がまっすぐ見れなかった。

 本当は瀬名生が帰ってくるまでに全て終わらせる予定だったのだ。

 洗濯物も掃除も、夕食も全て整えて、きちんと綺麗になった状態で彼を迎えたかった。

 なのに、慣れない藤見は掃除機ひとつかけるのにもソファにおいてあった新聞紙を

吸い込みかけてくしゃくしゃにしたり、ゴミ箱を倒してしまったり、リビングテーブルの上に

置いてあったペンを吸い込んでしまったりとミスを連発し、ようやく終わり洗濯をしようとしては

洗剤を床にこぼしてしまい、夕食にいたっては本と首っ引きになっていたのに、まだ味噌汁と

玉子焼きしかできていない。しかもその玉子焼きも焼きすぎて焦げが目立っている。

「ごめんなさい。ぜんぜんできてなくて……」

 俯いて謝る藤見に、瀬名生は優しい目を向けた。

「謝ることなんてないのに……一生懸命してくれたんだろう? 俺は嬉しいよ。 でも芳留には

無理して欲しくないんだが」

「無理なんか………」

 藤見はふるふると首を振った。

「何も出来ないと貴士さんに飽きられてしまうから……そんなの嫌だから……」

「……は?」

 何を言い出すのかと、瀬名生は目を丸くした。

「芳留?」

「だって、看護婦の女の子達が言っていた………何も出来ないといつか飽きられてしまうって、

呆れられて別れるって言われるって………してもらってばかりじゃだめだって……」

 だから………。

 そう続く声が小さくなる。

 俯く藤見に、瀬名生の目が甘いものになる。

「……俺に嫌われないために? 俺に飽きられたくなかった?」

 目の前の頭が小さく縦に動く。

 愛しさにたまらなくなった瀬名生は、藤見の体を両腕に抱き上げた。

「…っ 貴士さん……っ」

「芳留。 そんなこと気にしなくてもいいのに。 俺が芳留に飽きることなんてない。

決してね。でも………」

 続けられる言葉に、藤見は不安そうな目を向けた。

「でも……?」

「でも、そうだな。 一つだけ、芳留にして欲しいことがあるな」

「何?」

 首を傾げて尋ねる藤見に、瀬名生はその耳に囁いた。



 ………ベッドの中でもっと積極的になって欲しいな。



 途端、藤見の顔が真っ赤になる。

「貴士さん…っ」

「俺にとっては一番嬉しいことだけどね」

 にやにやと笑う瀬名生に、藤見は何かを言おうとして、しかし黙って口を閉ざすとその首に

ぎゅっと抱きついた。
 
 そして、瀬名生の耳に囁き返す。


 ……・・・努力します…。


 瀬名生は大きく破顔すると、早速とばかりに藤見を抱きかかえたまま、寝室へと足を

向けたのだった。
















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