足音
「お前一人か?」 初めて会ったのは寒い冬の夜。 その人は行くあてがなくて途方にくれている僕に、 声をかけてくれた。 そして自分の家に連れて帰ってくれた。 その日から僕はその人と一緒に暮らしている。
ドアの開く音に、 僕は玄関に飛んでいった。 「お帰りなさい!」 「こら、 飛びつくな。 何度言ったらわかるんだ。」 いきなり飛びついた僕に、 靴を脱ぎかけていた彼はバランスを崩してたたらを踏んだ。 「だって遅いんだもん。 僕お腹ぺこぺこだよ。」 彼にたしなめられて僕はぷうと頬を膨らませた。 ようやく靴を脱いで部屋に上がった彼は、 なおもしがみつく僕の頭をくしゃくしゃと かき混ぜながら苦笑した。 「悪かったな。 仕事が長引いたんだ。 すぐに飯の仕度するから。」 「わーい。」 キッチンへと向かう彼の後を僕はとてとてとついていった。 「さて、 何作ろうか。」 言いながら冷蔵庫を覗きこみながらネクタイを緩める。 ぽいと椅子に放った上着がぱさりと床に落ちた。 「駄目だよ。 ちゃんとかけないと皺になるよ。」 僕は落ちた上着をベッドの上に持っていった。 「ああ、 悪い。」 それをちらっと見て彼が笑う。 「お前、 本当しっかりしてるな。」 だってここに置いてもらっているんだもん。 これぐらいしないと。 僕はまだ小さいから彼の役に立てるようなことは何も出来ない。 料理だって出来ないし、 洗濯だってお掃除だって無理だ。 だから自分に出来そうなことを一生懸命探した。 僕が出来ることをすると彼は嬉しそうに笑った。 それを見ると僕も嬉しくなる。 そしてまた何かしたいって思うんだ。 僕は彼が大好きだったから。 キッチンに戻ると、 彼はとんとんと包丁を使って何か作っていた。 「ご飯何?」 待ちきれなくてわくわくしながら訊ねる。 「面倒だから肉焼いて、 味噌汁とサラダ。 足りないか?」 聞かれて僕はぶんぶん首を振った。 「ううん、 お肉大好き!」 そう言うと、 彼は 「待ってろよ、 すぐ出来るから。」 と笑った。 出来あがったご飯を二人で食べた。 焼いたお肉はとってもおいしくて、 僕はご飯をおかわりしていっぱい食べた。 「よく食うな。 腹こわすぞ。」 そう呆れたように言われてもへっちゃら。 お腹こわしたことなんかないもん。 お腹いっぱいになって眠くなった。 テレビを見ながら彼もあくびをしている。 「今日は疲れたな。 風呂入って寝るか。」 肩をこきこきしながら立ちあがって風呂場に向かう。 「おい、 一緒に入るか?」 「えええっ」 こっちを見ておいでおいでする彼に、 僕はびっくりしてあとずさった。 「何逃げてんだよ、 ほらこっち来い。」 逃げようとする僕をつかまえて、 強引にお風呂に連れていかれた。 「だってそんな、 急に言わないでよ。」 いつもあんまり一緒に入らないからびっくりしてしまう。 「ちゃんと全部洗ってやるからな。」 うろたえる僕をおかしそうに見ながら、 彼は囁いた。 その言葉に僕はピキンと固まってしまった。 彼は言葉どおり、 楽しそうに僕を隅から隅まで丁寧に洗った。 僕は恥ずかしくてずっと固まったままだった。 ほかほかの体でお風呂から上がると、 彼は冷蔵庫をあけてビールを取り出す。 僕は牛乳。 二人して一気に飲み干す。 お風呂の後ってどうしてこんなにおいしいんだろう。 「さて、 寝るぞ。」 「うん。」 彼の言葉に僕はベッドに飛び乗った。 もう眠くて眠くてたまらない。 彼も隣に入ってくると、 僕を腕の中に抱き寄せた。 ふうっと満足げな声を出すと、 すぐに寝息を立て始める。 「お休みなさい。」 僕はその寝顔に小さく囁くと、 そのまま夢の中に入っていった。
でもある日、 いくら待っても彼は戻ってこなかった。 「お腹すいたよ〜……」 小さくうずくまってつぶやく。 外に出て探しに行こうかと思ったけど、 どこを探せばいいのかわからなかった。 僕は彼の仕事先も知らなかったから。 電話も同じ。 僕はひたすら彼の帰りを待つしかなかった。
ずっとずっと待ちつづけて、 やっと玄関が開く音がした。 帰ってきた! 「お帰りなさい! どこ行ってたのっ? 僕ずっと待ってたんだよっ」 嬉しいのとお腹がすいたのとで頭がぐちゃぐちゃになりながら、 僕は玄関にあわてて 出ていった。 「……あなた誰?」 そこに立っていたのは彼じゃなかった。 女の人が一人、 驚いた顔で僕を見ていた。 「……あの子ったらいつの間に……」 彼女はそう低くつぶやくと、 さっさと靴を脱いで部屋に入ろうとした。 「待って! あなた誰だよ! 勝手に部屋に入ってくんなよっ」 僕が止めるのも聞かず、 どんどん中に入っていく。 キッチンまで来て、 ふと僕の方を振り返った。 「もしかして、 お腹すいてるんじゃない?」 突然の問いかけに僕はうっと言葉に詰まった。 確かに目が回りそうなほどお腹がすいている。 そんな僕の様子に彼女は冷蔵庫から牛乳と何か食べ物を出してきた。 でも僕はそんなことより、 どうして彼が帰ってこないのか、 どうしてこの人がここに 我が物顔でたっているのか、 それが知りたかった。 「ねえ、 あなた彼の友達? どうして彼帰ってこないの?」 「いいから、 早く食べなさい。」 僕の問いにその人は答えてくれない。 「彼今どこにいるの?」 いくら訊ねても知らん顔だ。 キッチンに立ったまま、 部屋のあちこちを見まわしている。 僕はとうとうあきらめて玄関に向かった。 「どうしたの? 食べないの?」 彼女の声が聞こえたが、 僕は応えなかった。 だって彼、 知らない人から食べ物もらっちゃいけないって言ったもん。 お腹はとってもすいてるけど、 僕はどうしても食べる気になれなかった。 もうすぐ彼が帰ってくるだろう。 そしたら思いっきり怒って訴えてやる。 もっと早く帰って来いって。
女の人は部屋に来ては何かごそごそして出て行く。 彼女はそのたびに僕に話しかけてはご飯をすすめる。 でも僕はもう彼女に話しかける気はなかった。 じっと玄関の方から聞こえる音に耳をすませる。 彼が帰ってくる足音が聞こえてこないか。 時々彼女が電話する声が奥からとぎれとぎれ聞こえる。 形見……とか処分……とか言っている。 僕には何のことかわからない。 ただ彼を待っていた。
足音がする。 もしかして…… 僕はじっと玄関のドアを見つめた。 と、 カチャリ ドアが開き、 ずっと待っていた彼の姿が現われた。 「どこいってたんだよっ!」 僕は思わず叫んでいた。 「ずっとずっと待ってたんだぞっ」 「ごめんごめん。 どうしても帰って来れなくて……。 悪かったな、 ずっとほったらかしに して。」 しがみついて泣きじゃくる僕の頭をなでながら、 彼が苦笑する。 「ずっと飯食べなかったんだって? 聞いたぞ。 駄目だろ、 ちゃんと食べないと。」 「だって、 知らない人から食べ物もらっちゃ駄目って言ったじゃないか。」 そう訴えると、 彼は仕方ないなあと笑いながらその場にしゃがみこんだ。 僕と目線を合わせて言う。 「あのな、 俺急に行かなきゃならないとこができたんだ。 もうここには帰ってこれない。 ……ついてくるか?」 「うん!」 僕は何のためらいもなく頷いた。 だって僕はあの冬の夜に、 ずっと彼と一緒にいるんだって決めたんだから。 そう言う僕に彼は優しく笑いかけると、 そっと手を伸ばして僕を抱き上げてくれた。
そう電話で誰かに話す女の声。 その足元で、 一匹の子犬が冷たくなっていた。
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