多谷&朔巳






 大晦日。

 真夜中だというのに大勢の人々で前もろくに見えない。

 朔巳はひどい人いきれに気分が悪くなっていくのを感じた。
 
 しかしこの人ごみでは少し休憩しようにもその場所さえ見つけることは至難の業だ。

 こうしている間にも、後からどんどんと人が押し寄せて来ている。

「!」

 あまりの混雑に苛立った男に後ろからどんと押され、ぼうっとしていた朔巳は思わず足を縺れさせた。

 あ、と思った時には遅かった。

 そのまま地面に倒れるかと思った朔巳の体を隣からぐいと引き上げる腕があった。

「あ……」

「大丈夫か? 朔巳」

 心配そうに自分を見下ろす瞳に、朔巳はほっと息を吐いた。 そしてこくんと小さく頷く。

「………うん、ありがとう。もう大丈夫だから」

 笑って腕を離そうとする朔巳に、しかし多谷は眉をひそめたまま手を離そうとしなかった。

「和春?」

「少し顔色が悪いな」

 頬にあてられた手がほんのりとした温かさを伝えてくる。

「だ、大丈夫。ちょっと人ごみに酔っただけだから……」

 たいしたことないから、と首を振る朔巳だったが、多谷はごまかされなかった。

「どこかで休む……ここでは無理か」

 周りを見回して多谷は舌打ちした。どこも見回しても人の頭しか見えない。

「とりあえずここから出よう」

「和春……っ 俺なら大丈夫だからっ」

 朔巳の身を庇うようにして、今来た道を逆に辿るように人ごみを掻き分けていく多谷に、

朔巳は慌てたような声を出した。

「本当にいいから……だって、せっかくここまで来たのに……」

 31日の夕方、多谷から電話があった。

 近くの神社に一緒に除夜の鐘を撞きに行こうと、そしてその後初詣をしてから初日の出を

見に行こうと誘われた。

 新年を二人で祝おうと受話器の向こうから優しく囁かれ、ぼうっと夢見心地で頷いた。

 本当ならどこか旅行に行きたかったんだけどな、と言われ、見えもしないのに赤くなった頬を

隠してしまったことは多谷の知らないことだ。

 教授がぎりぎりまでこき使ってくれたから、予定が立てられなかった。

 ため息とともに吐かれる言葉。

 年末ぎりぎりまでばたばたとあちらこちら飛び回っていた多谷がそんなことを考えていたなんて。

 彼があまりに忙しそうなので新年はどうするのかと尋ねることさえできなかった朔巳は、

受話器の向こうから聞こえる残念そうな声にぶんぶんと首を振るしかなかった。

 好きな相手と一緒に新しい年を迎えることができる。

 それだけでどんなに嬉しいか。

 本当にとても、とても嬉しかったのだ。

 なのに………

 初詣に出る人の多さを忘れていた。

 人ごみが苦手な朔巳は大勢の人の中だとすぐに酔って気分が悪くなってしまう。

 だけどこんな日にまで……せっかく多谷が誘ってくれたのに………

 自分の弱さに情けなくなってしまう。

「本当に、大丈夫だから……」

 しかし多谷は朔巳の言葉を聞く様子もなく、どんどんと神社の外に向かって歩いていった。

 流れとは逆の方向に歩いていく二人連れを見る周りの人々の不思議そうな目も、全く気にする

様子もない。

 とうとう、神社の参道から完全に出てしまった所でやっと多谷は立ち止まった。

「ちょっと待ってろ」

 朔巳の顔色を見ると神社の生垣のそばにあるベンチに座らせ、多谷は足早にどこかへ

行ってしまった。

 その後ろ姿を見ながら、朔巳は自己嫌悪に陥っていた。

 どうして自分はいつもこうなんだろう。

 多谷に迷惑ばかりかけている気がして、自分が情けない。

 こんなばかりではいつか多谷に呆れられてしまうんじゃないか。

 そう暗く考えてしまう。

「どうした? まだ気分悪いのか?」

 ベンチに座ってじっと俯いていた朔巳は、戻ってきた多谷に気づけずにいた。

 目の前に差し出されたジュースの缶に、はっと顔を上げる。

 気遣うような顔をした多谷がそこにいた。

「飲めば少しはすっとするだろう。ほら。」

「……ありがとう…」

 プルタブを開けて一口口に含む。

 冷たい感触が喉を通り抜けた後、仄かな甘みと柑橘系の香りが口に残った。

 気分がすっきりとしていくのがわかる。

 が、それとは裏腹に、朔巳の心は沈んだままだった。

「………ごめん、せっかく誘ってくれたのに……」

 小さく呟く。

 隣に座り、自分も缶コーヒーを飲んでいた多谷は、その声に朔巳を見た。

 ちょっと眉をひそめ、そしてふっと微笑む。

 何気なく伸ばされた指が朔巳の頬を軽く撫でた。

「何言ってんだ。どうってことないだろう、こんなことは」

 軽い口調で言われた言葉に朔巳はぱっと多谷の方を向いた。

 そこには優しい笑みを浮かべた顔があった。

「別にどうしても行かなきゃならないものでもないし。俺はただ新しい年の迎える瞬間に

朔巳と一緒にいたかっただけだから。場所なんかどうでもいいんだ」

 除夜の鐘はただの口実。

 そう笑う多谷の言葉が朔巳の心にしみこんでいく。

 自分もそう思っていた。

 好きな人と一緒に新年を迎えることができる、それだけでとても嬉しかった。

 多谷も同じなのだ。

「…俺も………」

「ん?」

 小さ呟かれた言葉に多谷がなんだと身を寄せてくる。

「俺も、和春と一緒にいるだけで、すごく嬉しいから……それだけで嬉しいから……」

 それを聞いた多谷がまた、笑みを浮かべる。

 その目がふと何かを見つけた。

「……じゃあ、とりあえずこれでも拝んでおくか」

「え?」

 そう言って指差された方を見た朔巳が、あ、と小さく声を上げた。

 ベンチの背後にある石垣の上に、気の早い誰かが神社で買って忘れていったのだろうか、

 干支である羊のマスコットのついたお守りがちょこんと乗っていた。

 小さな羊の小さな目がじっと朔巳達を見ているようだった。

 目を丸くしてお守りを見ていた朔巳の耳に、除夜の鐘が鳴る音が聞こえた。

 もうすぐ今年が終わる。 そして新しい年が始まる。

「……来年もよろしく」

 多谷が耳元で囁いてきた。

 朔巳の手をそっと握り締める手があった。

 その手を握り返しながら、朔巳を小さく囁いた。

「こちらこそ」

 来年も、さ来年もずっとずっと……。


 

 そして、もうすぐ新しい年が来る。
 おめでとう、と二人笑いあうのだ。



 



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